淡路島と銅鐸

技術士(応用理学) 横井和夫


 淡路島の建材工場材料置き場から、弥生前期の銅鐸7個が見つかって注目を集めています。銅鐸を含む砂の採取場は淡路島南東部の丘陵。淡路島は中央を南北に延びる洲本平野により、北淡と南淡に別れ、特に瀬戸内海寄りを西淡と呼ぶ。
 西淡地方の東部洲本平野には、大阪層群と呼ばれる洪積層からなる丘陵が発達する。これはこの地域では主に砂や砂礫からなり、建材特にコンクリートの細骨材原料に適するから古くから土取場が発達してきた。今回銅鐸が見つかった砂も、その一部として採取されたものだろう。
 淡路島から明石海峡を挟んで対岸の、兵庫県神戸市垂水には「五色塚古墳」という兵庫県最大の前方後円墳がある。この墳頂に登って海峡を見渡すと、これがかつて明石海峡を制約していた海の大王(=要するに海賊の親分)の墓ということは直ぐに判る。
 古くから瀬戸内海は、大陸と日本特にヤマトとを繋ぐ重要流通経路の一つだった。明石の大王は明石海峡を通る交易船の通行安全を保障する代わりに通行税を徴収していたと考えられる。これが巨大古墳を作る原資となった。
 五色塚古墳は荒廃が甚だしかったが、戦後兵庫県により復元工事が行われた。古墳には側面に葺石と呼ばれる玉石が敷き詰められる。復元に当たって兵庫県は、原則として周囲に散乱していた元の石を使用し(前方部)、不足部を別途購入材とした(後円部)。その差は明らかで後円部の葺石は白亜紀~古第三紀の流紋岩質火山岩、これは淡路島には産出しない。一方前方部は領家変成岩と呼ばれる花崗岩~花崗片麻岩で、これは淡路島北部に広く産出する。又北淡地域の大阪層群基底礫層には領家変成岩起源の花崗岩~花崗片麻岩礫が多く含まれる。これらが侵食によって河川に流出すると、河床礫を作るから、容易に採取できる。つまり明石の海の大王の勢力範囲は、少なくとも淡路島北部まで達していたことはあきらかだ。さてこれが鳴門海峡まで達していたかどうかが問題なのだが、今回の発見でおそらく淡路島南部まで及んでいたことになると考えられる。
 当時日本では銅は大変な貴重品で、全部中国から輸入していた。替わりに銀を輸出していたのだから大変な対中貿易赤字だ。この銅が銅鏡・銅鐸・銅剣など様々な銅器に形を変えて日本国内に流通していた。明石の海の大王は海峡通行権の代金として銅器を徴収し、その一部を淡路島にいた子分に分け前として譲っていたのだろう。
 銅は重いから水に載っては移動しない。今回発見された銅鐸は、所有者が何らかの理由で地下に埋めたのだろう。それは盗難を防ぐことだったり、国家からの没収を防ぐためだったりかもしれない。つまり貴重な隠匿物資だったのだ。
 7世紀天武天皇は廃銀令を出して、日本からの銀の流出を禁止した。ということは中国からの銅輸入の禁止である。当然銅不足に陥るが、この穴埋めをするために全国から銅器が没収された。しかし地方では銅信仰が強く、朝廷による没収を防ぐために銅器の埋蔵が行われた。今でも時々とんでもないところから、大量の銅器が発見されるのはその所為だろう。
 ではこの明石海峡の海の大王とは何者か?筆者は住吉神こそがこの大王ではなかったかと考えている。大阪湾周辺には住吉神が多くいる。大阪の住吉大社はもとより、神戸にも住吉神社はあるし、洲本にもある。
 記紀によれば衷哀天皇が南九州の隼人を討つため軍を起こし、大宰府でウケイを行って神託を得た。しかし神託は軍を西に進めよ、という。そこで天皇は「私は南に行こうとしているのに西に行けとは、異なことだ」と神託を疑ったところ、天皇は三日三晩苦しんで身罷ったとされる。「さてもヤマトの神は恐ろしきかな」、とある。と言うことは、天皇はヤマトの人間ではなかったのか?と言うことになるが、それはさておく。そしてこの恐ろしい神こそが住吉神と云われる。
 「西に向かえ」という住吉神の神託の意味はなにか?住吉神を明石の海の大王と考えれば意味は判る。西へ向かえとは、要するに大陸への交易路を確保せよという意味である。既に地理的交通路はあったが、北九州から東シナ海に懸けては、海賊の跳梁が甚だしく安心して交易が出来ない。これを平らげて安全交通を確保せよと言うのが海の大王の要求であり、住吉神託の本心である。ところが天皇はその本心が理解出来ず、自分の利益のみを考えたため神に祟られたのである。今で言えばTPPと反対派の衝突のようなものだ。
(15/05/20)