ヒルベトクムランの地震痕跡

 アカバ湾から死海を経てヨルダン川を遡り、ゴラン高原に達する直線状の谷地形は活構造帯であり、プレート境界断層であることは既に「・・Aイスラエルが滅亡するとき」に指摘してありますが、最近ある本を読んでいると、実際紀元前にこの地域で地震が生じたことが判りました。更に死海の近くにある遺跡の中に、その地震の痕跡と云われるものが残っているらしいのです。筆者自身はイスラエルにも死海にも行ったことはないし、あんな危ないところに行く気もありません。従って、ここでは文献で紹介されている資料を基に、本当に地震の証拠なのか、そうだとすればどういうタイプの地震が推測されるかを検討してみたいと思います。
 以下、ここで用いるデータは次によります。
     (1)高橋正男「死海文書ー甦る古代ユダヤ教」 講談社選書 1998


1、ヒルベトクムランの場所

 ヒルベトクムランとは、死海北西にある古代ユダヤ教の一分派クムラン宗団の遺跡です。ヒルベトとは廃墟の意味。つまりヒルベトクムランとは「クムランの廃墟」となります。この遺跡は死海北西湖岸上の岩山にあり、その直ぐ南には、例の「死海文書」が発見されたワーデクムラン洞窟群があります。「死海文書」自体がクムラン宗団により作成されたものです。
 左の図は中東全図。右は(1)から引用した死海周辺図



               図ー1
太線が紅海からアカバ湾、ヨルダン渓谷に沿うプレート境界断層。太線の右がアラビアプレート、左がアフリカプレート。断層の方向はヨルダン渓谷ではおおよそNS〜N5E。

図ー2

2、ヒルベトクムラン周辺の地形・地質
 現在の死海の標高は約-400mである。死海北西岸には標高-70〜-100数10m付近に湖岸段丘が発達する。おそらく、かつての死海の湖底面の跡であろう。湖岸段丘から死海までは比高約300mの急崖が発達する。ヒルベトクムランは、崖裾に近い標高-340m付近の岩山を、斜めに削り取って作られた人工都市である。どういう地形なのか、言葉より見た方が早いので、(1)に掲載されている地図と写真を見てみましょう。

              図ー3
ワーデとは固有名詞ではなく、涸沢のこと。普段は水は流れておらず、何年かにI一回の大雨の時だけ、水が流れる。このときは大洪水になる。この時には砂漠で溺死者が出ることがある。
図ー4   写真斜め左下が北。

 ヒルベトクムラン付近の地形をもう少し細かく見てみましょう。南方のアインーフェシュカから北には、崖と死海との間に沖積平野が幅数100mに渉って発達し、北方でヨルダン渓谷に連続します。崖と沖積平野との境界はほぼ直線であり、走向はほぼN-S。ヒルベトクムランは丁度この境界線上に位置しています。問題はこの直線地形が何なのかです。構造地形学では、直線崖を活断層と認定することは少なくありません。ヨルダン渓谷の地質環境を考えれば、この直線崖やその下の沖積平野を詳しく調べれば、地震の痕跡が多数発見されることが期待出来ます。

(1)では、クムラン遺跡やワーデクムラン洞窟の地質を「泥灰岩」と説明しているが、これはおそらく発掘報告書の記載をそのまま直訳したものであろう。発掘者も地質学の知識をどの程度持っているか判らないから、明確な地質学的定義に従って、この言葉を用いているかは疑問である。泥灰岩は石灰岩類の一種である。我々日本人の感覚で云うと、石灰岩はもの凄く硬い印象があるが、地質学者以外の欧米人はあまり細かい定義に拘らないようで、時代にかかわらず、石灰質な砕屑岩を全て泥灰岩と読んでいる可能性がある。その様な岩石は、一般に低緯度地方の海岸沿いの浅海域で形成されるから、かつて海域だった地域には広く分布する。中近東地方では極くありふれた岩石である。又、石灰分の起源は石灰質の殻を持つ生物であることが多い。そういう岩石は乾燥すると硬いのだが、水をかけると簡単に崩れてしまう。だから、右上の写真のように、山を斜めに削り取るなど、日本人の感覚ではとんでもない大工事に見えるが、実際にはたいしたことはない。極端に云えば、水で山を切り取ることが出来るのです。

3、地震の痕跡

 ユダヤ戦記他の古文献により、BC31年9月2日にこの地方を巨大な地震が襲ったことは間違いないようです(資料(1)P126)。資料(1)では下の写真(図ー5)をこの地震の痕跡として紹介しています。

図ー5 図ー6 A〜H 貯水槽

 先ず、図ー5から階段亀裂の特徴を整理しておきましょう。
 (1)亀裂は階段の向かって右下から左上にかけて直線に走っている(主亀裂)。
 (2)主亀裂に沿って、右上のブロックが相対的に隆起している。また、階段の並びから、右上のブロックが左下のブロックに対し、相対的に左側に変位していることが判る。
   つまり、亀裂を境に両サイドのブロックが前後左右にずれている。
 (3)中間のA点から上には主亀裂に斜交する三条の二次的な亀裂がほぼ平行に派生している。

ところが、ここで問題があります。
    1)地震説に対する反対意見がある。
    2)図-5の位置が、図ー6の何処か判らない。何処か判らないと、亀裂の方向を特定できない。
この問題を解決しないことには、地震の評価もなにもありません。そこで以下にこれらの問題を検討する事にします。
1)地震説に対する反対意見。
 そもそも地震説を唱えたのは1945〜1965年の間、エルサレムのフランス聖書考古学研究所長を努めた、フランス人ドミニコ会士ローランド・ド・ヴォーである。彼は1949年から1956年にかけてこの地域に対し組織的な調査を行った。その結果で、図ー5の階段上の亀裂をBC31年の地震によるものとしたのである。ヴォーはその経歴から、地質学や地震学の正規の教育・訓練を受けていなかったと思われる。そのせいか、早速反論が出されたようです。(1)によれば「多くの研究者は、亀裂はおそらく浸食作用の結果)である(イ)と結論付けた。又1967年6月の六日間戦争(第三次中東戦争)以前にヨルダン政府の委嘱でヒルベトクムランの調査・復元に従事した、あるイギリス人建築家は、建造物群が地震によって災害を受けた証拠は一切ない(ロ)貯水槽の階段の亀裂は水の重さによるものか、又は修復の際のものであろう(ハ)、と述べた」とある。地震説によろうとするとこの二つの説を論破しなければならない。
(イ)の見解について
 一体どういうタイプの浸食作用を考えて良いのか判らない。一般に浸食作用は流速が大きくなるところから始まる。そこはしばしば地形上の凹部である。この階段は水くみのために用いられたと考えられるので、往復路に当たる階段中央部分が低くなるのが当然である。浸食作用なら階段中央を、階段路に平行に浸食部が発達するはずで、斜めに亀裂が入るなど考えがたい。第一、階段に見られる前後左右のずれは浸食作用では説明出来ない。階段に亀裂が入った後、その周囲が風雨で浸食されることはある。浸食論者はそのことを云っているのだろうか。重要なことは、二次的な浸食ではなく、その原因になった亀裂が何時どうして生じたかである。浸食説はこの疑問に答えられない。
(ロ)の見解について
 問題はこの建築家がイギリス人だということである。彼はおそらく地震そのものを経験したことはなく、地震災害の後を見たこともなかっただろう。この遺跡は地震後修復されたが、第一次ユダヤ戦争後のAD70年(地震の100年後)にローマ軍によって破壊された。それと、クムラン宗団そのものが、ユダヤ教の一地方分派で財政的に豊かな教団ではなく、住居としても泥小屋がせいぜいで、たいしたものは所有していなかったのである。ギリシアやローマの大神殿なら、一旦壊れると復旧が大変だからそのまま放置され、倒壊の跡が残るが、、逆にこういう簡易建造物は、地震後直ぐに復旧出来るので倒壊の跡が残らない。だから、彼が建物群に地震の痕跡を見なくても当然で、この遺跡が地震災害を受けていなかったという根拠にはならない。
(ハ)の見解について
 多分この建築家は、貯水ピットと貯水タンクの違いを区別出来なかったと思われる。おそらく職業柄上部工の構造は学んだと思うが、基礎や地盤(土質)力学は勉強していなかったのだろう。軟弱地盤上に不完全な基礎でタンクを築造すると、内容物の重量で、基礎が不等沈下を起こしタンク基礎に亀裂が入り、タンクそのものが倒壊することがある。30〜40年前の三菱石油水島製油所のタンク事故がそれである。ヨーロッパや中東でも似たような事故が生じていたのではないか。クムラン貯水槽の場合は、地下を掘削してピットを築造している。底面に加わる荷重は掘削前より低下している。水の重量で岩盤が破壊される訳がない。また、不等沈下の場合でも、亀裂の左右での横方向のずれは説明出来ない。

 このように、地震起源反対論者の主張は、科学的に見れば殆ど珍説・妄説の類に過ぎず、論評に値しない。しかし、本遺跡の発掘調査が行われたのは、1950年代から1960 年代である。この時代では、地質学の世界でも地震で断層が発生するという考えは無かった(あっても異端視されていた)し、活断層に関する知識も無かったので、これもやむを得ないと云える。

2)階段の位置と亀裂の方向
 図ー6を見るとおり、貯水槽と云われる施設はA〜Hまでの計8箇所ある。資料(1)にはそのどれかとは書いていない。従って、自力で特定しなければならない。図ー5(写真)を見ると、この階段は、長方形で概ね3段毎にステップを広くとっている。この特徴に該当するのはA、B、Eの3箇所のみである。又、B階段は上部に溝のような構造物があるが、図ー5にはそのようなものは写っていない。従って、亀裂階段はA、Eのどちらかである。階段の段数は図ー5では15段。A階段は20段、E階段は図が小さいため正確には数えられないが、15〜16段である。従って、A階段の可能性は小さく、E階段と推測される。なお、AとEは平行に配置されているので、どちらであっても亀裂の方向には影響しない。図ー5から亀裂の方向は階段右下から左上隅に入っている。これを図に投影すると、亀裂の方向は、ほぼN-Sとなり、この付近でのプレート境界断層の一般方向に一致する。
  
 以上からこの階段亀裂は、BC31年の地震で活動した、ヨルダン渓谷に沿うプレート境界断層帯の一部の地表での表現(地表地震断層)の断片である可能性が高いと考えられる。断層としては左横ずれ断層である。なぜ、”可能性”に留めているかというと、第一に現物を見ていないこと、第2に地表地震断層を確認しようとすれば一箇所だけではなく、長距離に渉ってその連続性を確認しなければならないからである。しかし、2000年も前の地震の跡が残っているだろうか?確かにこれは難しい問題である。もっと詳細な地形図や空中写真があれば私でも何とかなるかもしれない。現地は世界でも有数の乾燥地帯ということを考慮すると、レーダースキャナー探査が最も有功と思われる。

 では、この亀裂が地震によるものとして、これを生じた地震はどのようなものか。先ずタイプは直下型地震である。次に震源は極めて近い。おそらく数qないし10数q以内。地震マグニチュードは岩盤に変位を与えていることから、M7級はあったと思われる。
 阪神大震災以降の我が国の活断層研究結果では、同一セグメントでの大地震(地表に変位を生じうるレベル)の再来周期は、おおよそ1500〜2000年程度とされる。クムランの断層は最後の活動から既に2000年以上が経過している。すると既に再来時期に入っているわけで、何時地震が起こっても不思議ではない状態なのだ。だとすれば、イスラエルもアラブも不毛の戦争はさっさと止めて来るべき審判に備えるべきだろう。
 


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