史跡 今城塚古墳と地すべり・地震それと円筒埴輪

                        技術士   横井和夫


1、はじめに
 国指定史跡「今城塚古墳」は、大阪府高槻市の辺境、岡本氷室にある、大阪府下では淀川以西最大の前方後円墳です。 AD5〜6世紀の築造で、継体天皇陵と伝えられます。最近第6次発掘調査が行われ、環壕から大量の円筒埴輪が見つかったので、マスコミに大々的に取り上げられ話題になりました。そこで、考古学野次馬を自認する筆者も「…では見にいかねば」と思い、早速現地説明会に行って参りました。そこで見つけたのは、円筒埴輪よりもっと面白い応用地質学的事実です。

2、地すべり
 現地説明会のコースを入っていくと、いきなり大きなトレンチに出くわしました (図1の「調査地2」)。そこの露頭(写真1)を見た途端、「これはスランプをやっている」と直感しました。案内者(高槻市教育委員会の人)の説明によると、「ここは、かつて地震があって、それによる地すべりの跡です」という説明です。「ふむふむ…意見一致」と思い露頭を見ていると、いろんなところにスランプの形跡が残っています。  

写真1図1                           
 
 写真2は、トレンチ掘削面を横から見た画です(概ね地すべり方向に直行方向)。写真中央に、水平の灰色バンドがあり、その上の土塊が、団塊状に分断されて移動している様子がよくわかります。三角形状の黒色土塊の中に、灰色の帯状の部分がありますが、それはもっと小さい塊で出来ています。これは人間一人が持って運べる、一つの単位()を表します。つまり、これの横方向の並びは一つの地層を現します。

写真 2写真3

 写真3はすべり土塊をほぼ正面から撮った写真です。中間の黒色部は、やはり袋の集合体ですが、写真中央の灰色バンドと、その上の盛土との間で激しく褶曲していることが判ります。
 灰色バンドの下の地層は、在来の地山で、これには大きな変形が見られないので、この灰色バンドがすべり層と考えられます。

古墳の現況
 図1を見ると、この古墳が正規の古墳形状に比べ、著しく変形していることが判ります。これは後世の自然災害や人工改変によるものです。まず、図1で前方部底辺(図のAゾーン)を見ると、中間が周囲に比べ、僅かせり出しているのが判ります。これは帝王の墳墓築造に当たっては、あり得ないことです。そこで、早速相棒の五互君と一緒に現地調査にいってきました。確かに前方部の中段には、前述のせり出しを包むように、弓なりの地溝が延びています。これは地すべり引っ張り亀裂と考えられます。これは現在、散策路になっているので、亀裂はかえってよく保存されています。

 前方部北斜面には、墳丘稜線直下に滑落崖があり、その下に地すべり地形が残っています(1Bゾーン)。これの上部は、滑落により沈降していますが、下部は盛り上がっており、地すべり引っ張り帯と圧縮帯の対比が、よく保存されています。今回の発掘トレンチは、圧縮部の末端を開削したものです。

 後円部北斜面(1Cゾーン)にも、波打ったような地形の凹凸が見られるので、これも見方によってはスランプ地形の可能性もあります。しかし、背後斜面は直線状で、人工的なものが感じられます。この地域は中世戦国時代には、城砦の跡とも云われるので、その遺構が残っている可能性もあります。従ってこれはペンデング。

 墳丘の南側を見てみましょう。図1Dゾーンは現在平坦な広場になっています。この部分は前方部と後円部の接合部で、通常は「耳」と称される突起部が築造されます。これが跡形もなく無くなっているのは、この部分が後世に削り取られたからに他なりません。では、削り取られた土は何処に行ったのでしょう。この部分の前面の環壕は埋め立てられています。何かの必要により、環壕埋土に用いられたと考えるのが合理的でしょう。

 墳丘と周辺の比高は約10m前後です。これはこの時期の大規模古墳としては、極く普通の値です。従って、墳丘頂部は後世でも、大きく改変されていないと考えられます。しかし、全く無いわけではありません。後円頂部に花崗岩の角石が残っています。通常陵墓表面は、葺石と呼ばれる石材で覆われますが、この時期の陵墓葺石は玉石が普通で、角石が使われることはありません。これも中世城砦の建築の跡と考えられるので、墳丘頂部も若干の改変を受けたとは考えられます。

 要するに、今城塚古墳は背骨だけが残り、周りは自然災害や人間の欲得のせいで、相当痛めつけられた古墳と云えるのです。

4、古墳を痛め付けた元凶
 これは前に何度も述べているように、自然災害と人間による改変です。これをもう少し具体的に考えることにします。

41)自然災害
 これの最大のものは、云うまでもなく地すべりです。地すべりは2箇所に渉って発生しています。地すべりを発生させるためには誘因が必要です。今のところ、その最有力候補は地震です。地すべりは中世城砦の一部を巻き込んで発生しています(図1のBゾーン東角)。つまり、この地震は中世戦国期以降の被害地震です。又、今城塚古墳の直近には、「有馬高槻構造線活断層帯」に属する「安威断層」や「真上断層」があります。その点から考えると、犯人の地震は「慶長地震」以外に考えられません。2箇所に渉って地すべりを発生させているのだから、この地震は高槻でも、相当大規模であったに違い無い。であれば、それは必ず記録に残っているだろう、と思い高槻市中央図書館で、「高槻市史」を見にいってきました。その結果はなんと、地震による被害どころか、市史には「慶長地震」そのものも、一切の記述・記録が無いのです。慶長地震の頃は三島地域は徳川氏の直轄地で、京都所司代の支配下にありました。地震記録は、その後の年貢の取り立てに関係するので、記録が残っていないはずはありません。A、Bゾーンの地すべりが互いに直交している点も疑問です。ひょっとすると両者の地すべりは、地震とは別の原因で別個に発生した可能性もあります。今後、他の史料と突き合わせて検討することが必要でしょう。

42)人工改変
 これは、中世戦国期に本古墳を城砦に利用したためです。中世という実力主義の時代には、古墳を戦闘用に用いることは不思議ではありません。今城塚古墳は平地の小突起であり、規模・位置から見て大規模な要塞ではあり得ません。一方、これの南数qには交通の要衝、西国街道(現在の国道171号)があります。現在の古墳周辺は、全面に住宅地になっていますが、往時は一面の水田で、西国街道を一望に出来ます。これらの点から本格的防御要塞よりは前線監視硝のような物だったと考えられます。人工改変が中世戦国期に行われたとすると、図1のDゾーンは作戦号令所又は厩、Cゾーンは本営及び陣屋、そして墳丘頂部に望楼を建て、これから西国街道を監視して、状況を狼煙又は早馬で本陣に知らせていたのでしょう。

 時は天正10年6月、「信長、本能寺にて死す」という報せを持った早馬が各地に四散する。今城塚監視硝も当然これをみている。この報せを受けた羽柴秀吉はやや迷ったあげく、京都反攻を決意する(いわゆる中国大返し)。この時、摂津3大名…池田の池田勝正、茨木の中川清秀、高槻の高山右近…は果たして明智に付くべきか、羽柴に付くべきか大いに迷い、鳩首協議した。結論は勝つ方に付く。これは当たり前です。中川勢は「天王山」を制圧し、続く「山崎の合戦」では、高山勢は羽柴軍の先鋒となって明智軍に突撃し、明智軍中央を突き崩すという戦功を立てました。

 しかし、今城塚監視硝が「羽柴軍の後続に勢いなし」というような報告を本陣に送っていたとすると、事態はどうなっていたでしょうか。羽柴と明智とでは戦力はほぼ拮抗しています。羽柴に勢いなしと見れば、彼らは明智に寝返って、逆に羽柴を撃ったかもしれない。そうなれば日本の歴史は変わった可能性もあります。てなことを考えていると、暇つぶしには丁度良いのです。

5、円筒埴輪
 51)埴輪の現況
 これが今回の発掘成果の「目玉」です。今城塚古墳は二重環壕構造になっています。今回の発掘は、内側環壕築堤で行われ(図1調査地2の向かい側)、ここで円筒埴輪柱列と小型の装飾埴輪数10点が出土しています。円筒埴輪の状況を見てみましょう(写真4、5)。

 写真4   写真5

写真の右側の埴輪は比較的現況を留め、断面も真円に近いのですが、左側は大きく変形し、楕円状になっています。正常部分と変形部分は、ある間隔で飛び飛びに発生しているようです。
ところで、この円筒埴輪は環壕築堤上に埋められていますから、偏土圧が発生する条件下にはありません。従って埴輪の破損原因は、別の外力…つまり地震力以外には考えられないのです。では写5を見てみましょう。破損の方向は写真の左下から右上方向です。ところで埴輪柱列は北西ー南東方向に並んでいます。本古墳周辺の活断層の方向は、ほぼ東西方向だから地震波の方向も東西になります。これは、埴輪の破損方向に一致します。
つまり、この破損は地震時の剪断によるものだと考えられます。
 但し、これは地震時の歪みが小さい場合にのみ成立する話しで、地表地震断層が発生するような大変形の場合 (これは弾性論ではなく塑性論で議論しなくてはなりません)には通用しません。逆に云うと、高槻は慶長地震では、大した地変は生じなかったとも考えられるのです。これは高槻市史で、慶長地震に関する記述が全く無いことにも符号します。又、この線で考えると、地すべりは必ずしも地震と関連付けて考える必要も無くなるのです。これは慶長地震の本質にも関わる問題です。筆者はこれを説明するモデルとして、トラップ波の可能性を考えています。

52 )円筒埴輪とは
次に円筒埴輪の本質について考えることにします。円筒埴輪が古墳外構に柱列として発見されることは、今城塚独自ではありません。兵庫県垂水五色塚古墳では、墳丘側部に2列に渉って、おびただしい埴輪柱列が発見されています。

                             図 3 神戸市資料)

 これは一体どういうことでしょうか。一般には埴輪は帝王の葬礼、あるいは追葬儀式時の祭祀・儀礼に用いたものと解釈されています。しかし、我々技術者の眼から見ればむしろ墳丘斜面の補強材…つまり土木材料…にしかみえないのです。

 埴輪の発明者は、伝説によれば野見宿祢といわれます。筆者の家の近くに、野見神社という神社があります(高槻の総氏神)。主神は野見宿祢ですが、スサノオの尊・牛頭天王が合祀されています。筆者が独身時代を過ごした、兵庫県伊丹市の総氏神は猪名野神社で、主神はスサノオの尊、野見宿祢・牛頭天王が合祀されています。スサノオ以前の祭神は「オオツチノカミ」とか、聞いたこともないカミの名前が現れます。おそらくはアマテラス神以前の古い神、即ち弥生〜縄文期のカミと考えられます。牛頭天王は医薬のカミであると同時に金銀財宝のカミと伝えられます。スサノオはその経歴から見て、日本では鉱山のカミとして祀られた可能性が高い。高槻の隣の茨木は、アラハバキが転じたもの(アラハバキ→アバラキ→イバラキ)と考えられます。アラハバキとは「東日流外三郡志」に登場する古代先住民のことですが、これも古代の鉱山民とする説があります。北摂山地には多数の鉱山が古くから存在していました。つまり、古代には北摂山地周辺には、鉱山に関連した先住民が多数存在していたと考えられます。彼らは、これら鉱山民のカミとして祀られたのでしょう。鉱山から派生した技術の内、重要なものに土木があります。筆者は野見宿祢こそが古代土木のカミと考えているのです。

 土木のカミが発明したものだから、埴輪は祭祀用のような呪術目的のものではなく、もっと実用目的を持った土木材料であるはずです。墳丘は土で築造されます。近年、古墳の復元が各地で試みられています。復元された古墳の法面勾配は、我々土木に関係した技術者の眼から見ると、驚くほど急勾配です。従って、その表層は常に不安定で、豪雨や地震の度に崩壊を繰り返していたに違いありません。長期的な安定性を確保するためには何らかの法面補強が必要です。円筒埴輪はそのための補強材と考えられます。今回発見された円筒埴輪列は、環壕築堤の補強材として用いられたのでしょう。同時に発見された小型装飾埴輪は、築造に当たった工人達が、工事の安全を祈願して、埋め込んだものではないでしょうか。人形やその他の模型に魂を吹き込んで、それを土中に埋めたり川に流して厄を払い、家内安全・無病息災を祈願する風習は、例えば雛祀りの雛人形や、七夕の笹飾りにみられるし、クリスマスツリーも起源は似たようなものでしょう。ウラルアルタイ語族に共通した風習なのかもしれないのです。

 一方で、大型の装飾埴輪があります。帝王が葬られる巨大墳墓の築造には、莫大な経費が必要です。一般に帝王は、自分の墓を作るのに、自分の金は使いません。貴族・豪族に費用を分担させます。そこで彼らは、自分がこれを作るのにこれだけ協力したのだ、という証拠を示すために、自腹を切って自分の氏族を象徴するような装飾埴輪を埋め込んだ…例えば、物部氏は武人像、建部氏は家屋像のように…のではないか、というのが筆者の推理です。これは、「今も昔も人間が考えることに大差は無い」、言い換えれば「現在は過去の教師である」という「ライエルの法則」に基づくものです。しかし、逆に言うと、人間というものは知性という点で数千年の間、殆ど進歩していないということも意味します。動物園に行けば、ブッシュと猿の顔に殆ど違いがないことに愕然とするでしょう。(2002,11完)

 


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