大阪平野の聖ラインと活断層(2)・・・・北摂


(1)では、活断層と古墳・神社・寺院等宗教施設との関係を、1/20万スケールでしか表していないので、精度が悪くどの程度一致しているか、疑わしい面もある。そこで、ここでは1/25000スケールで個々の様子を眺めることにする。 

1、Aライン
 これの代表例として大阪府「三島古墳群」を取り上げる。 「三島古墳群」は大阪府茨木市西部から高槻市東部にかけて分布する、大阪府下最大の古墳群である。同じAラインでも兵庫県下の中山古墳などが地方豪族の墓であるのに対し、これは大王(天皇)やそれに次ぐ高位階層の墓が多い。日本版「王家の谷」とも云える。下の図は三島古墳群西方、大阪府茨木市東部から高槻市西部にかけて分布する代表的な3古墳を表したもの。

 この図を見ると
@継体天皇陵(茨木市)は、「安威断層」に接する形で築造されている。
A闘鶏山古墳、今城塚古墳は、それぞれ「真上断層」、「安威断層」の延長線上にあり、当に断層を狙って築造されたように見える。
古代であれば、土地はいくらでも余っている。にも拘わらず、何故このようなややこしい所に墳丘を築造したのだろうか?

 今城塚古墳の東方では、どういう遺跡があるでしょうか。下図は高槻市東部の主な遺跡の分布です。

ここで、車塚古墳は、真上断層の丁度延長直上にあたります。
高槻市上宮天満宮 正面が上宮天満宮。もともと、この場所に野見神社があったらしい。
車塚古墳
上宮天満宮の直ぐ下の府道脇にある古墳。府道はこの古墳の下を開削(C-BX)でアンダーパスする。
道祖神神社 磐手杜神社までの途中にある小さな社。最近になって再建された模様。しかし、祭神は猿田彦尊でかなり古い。一応注意しておく必要あり。
磐手杜神社 式外の郷社だが、祭神は武イカヅチ尊、天ノコヤネノ尊、フツヌシノ尊、ヒメノ大神、安閑天皇と結構メジャーをそろえている。創建は6世紀、藤原鎌足の勧請によるとされる。今は小さな社だが、かつては相当大きな神社であったことが想像される。背後の安満山もかつては、この神社の領地だったらしい。

2、A-1ライン
 兵庫県伊丹台地の中央部である。これはAラインに比べればマイナーなのだが、筆者が少青年期を過ごした場所でもあるので、少し語らせてもらう。

 図の中央を斜めに走るのが「伊丹断層」ですが、その左端に「昆陽寺」という寺院がある。これは行基菩薩開基とされるから、今からおおよそ1200〜1300年前に建立されたことになる。「伊丹断層」の右端に「猪名野神社」というのがある。これは式外の県社だが、伊丹の総鎮守。祭神はスサノオノミコト、野見宿祢、牛頭天王。ところで、現在私が住む高槻の総鎮守も野見神社と云い、祭神は同じスサノオノミコト、野見宿祢、牛頭天王である。(高槻野見神社は今は、旧高槻城の脇にあるが、以前は上宮天満宮の境内にあったらしい。天神さんに追い出されたわけだ。上宮天満宮は、地形的には有馬高槻構造線の延長上にある。)これらのカミは鉱山・土木・医薬の神と考えられる。伊丹も高槻も背後に北摂の古代鉱山地帯を背負っているのが共通点。何れも、もともとは、アマテラス以前の国津神を祀っていたと考えられる。
 さて縁起によると、猪名野神社はもともと昆陽寺の場所にあったらしい。昆陽寺の建立時に現在地に移転したと伝えられる。何故わざわざ こんな場所に引っ越してきたのでしょうか?古代だから空いた土地は幾らでもあったはずです。昆陽寺の鬼門を守るとしても、昆陽寺の表鬼門の方位は東北だから、位置が合わない。伊丹という土地は、東に猪名川、西に武庫川が南流し、北に北摂山地、南に瑞ガ池、昆陽池という水源があって、風水的に見ても王城の地になる。風水で考えた場合でも、昆陽寺の位置は瑞ガ池の北方、宝塚市久代とか山本の辺りでなければならない。別の理由があったはずです。


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