若狭湾の津波と気比神社

横井技術士事務所
技術士(応用理学) 横井和夫

【若狭湾の津波と気比神社】
 本年夏に、敦賀市東方の「中池見湿地」で、津波痕跡確認のためのボーリングが行われた。電力会社側はボーリングコアに津波堆積物の痕跡は見あたらなかった、と報告した。ところがある委員が「そんなはずはない、Xー線スキャナーもやっていない、わざと津波のなかったところを選んだろう」と大変なご立腹。しかし、津波堆積物など、Xー線で見なきゃ判らないものでしょうか?あんなもの見れば直ぐ判るはずです。Xー線で見なくては判らないようでは、よっぽど岩相判定能力が無いということ。目玉は有っても、頭の中はカラッポということか。こんな能力不足の人間に、判断を委ねて良いのでしょうか?調査を行った中池見湿地は、筆者も何度か横を通ったことがあるので大体判るが、周辺を砂丘で囲まれ、外部からの影響・攪乱が無いということで、これ以上の場所は敦賀市近辺では見つからない。後は三方五湖とか他を調べなくてはならない。調べても無駄でしょう。もともとないのだから。
 さて、敦賀には気比神社という神社がある。これは大変古い神社で、もし有史時代に津波があったとすれば、この神社の社伝を調べればわかるだろう。又この神社は波打ち際にあり、過去に津波被害に遭えば、更に高地に社殿を移しているはずである。例えば、大阪の住吉大社は元々は下の住之江公園の辺りににあったのを、神宮皇后が現位置に移したと云われる。その理由は定かではないが、南海地震に伴う津波の影響とも考えられるのである。なお、この神社は実は現在の皇室起源とも関係がある。
 気比神社の祭神は「気比の大神、亦の名「イサザワケノ神」。古事記では1)神宮皇后*の頃、皇子(後のホムダワケノミコト、応神天皇)が禊ぎのため武内宿禰に連れられてここ越前敦賀にやってきた。2)その夜、宿禰の夢枕に気比の大神が現れて、「我が名をもって皇子の御名に易へんと欲ふ」と宣う。それに対し宿禰が「かしこし、命のまにまに易えたてまつらん」と答えると神は消えた。3)翌日浜に出てみると、浦一面に「鼻に傷ついたイルカ」が集まっていた。という話しである。
 まず疑問1)だが、皇子が禊ぎにやってきた理由は、敵軍に追われ葬船に乗って逃れたので、穢れを払うため敦賀にやってきたと云われるが、禊ぎだけなら住吉浜でも出来るし、木津川でも出来る。何故わざわざ遠い越前敦賀まで来なければなかったのか?2)の名前交換の話しだが、これには諸説があって未だ決着を見ないようだ。ここで筆者は新たな考えを提示するが、それは後に述べる。最期に3)イルカの件である。イルカとは何者か?
*神名はオキナガタラシヒメノミコト、オキナガ氏とは琵琶湖東部の水運を支配していた水族である。
 3)のイルカ出現エピソードは、彼等がイルカ捕獲=捕鯨を生業とする漁業民であることを意味する。イルカは哺乳類クジラ科の生物で所謂魚とは異なる。その違いは解体してみれば一目瞭然。魚と異なり、クジラ科生物は人間と同じ生殖器を持つ。更に魚は胎内に卵を持つが、クジラ科生物は卵は持たず、場合によっては胎児をもつことがある。この点から、日本人は魚と鯨・イルカとは異なる生物と認識していたはずなのである。クジラ科生物の捕獲は一般魚類とは異なる技術が必要である。彼等を仮にケヒ族と呼ぼう。即ち、気比大神とは、彼等捕鯨漁業民のシンボル・神であると考えられる。浜に現れたイルカはケヒ族戦士団ではないだろうか?鼻に傷があることの意味はよく判らないが、この場合の鼻とは身体器官の鼻ではなくハナ、即ち先端を意味するハナと解釈すると、彼等はみな歴戦の勇士という意味に取れる。
 次ぎに2)の問題である。大神の要請によって名を交換したのだが、さてどういう名になったのか、そもそも元々どういう名前だったのかも、記紀には何も記されていないので、さっぱり判らない。そのためこの点については、古来から様々な解釈が行われているが、どれも説得力はない。中には名は魚(ナ)の意味で、名と魚を交換したのだ、というのもある。しかし、何で皇子とも有ろう者が名と魚を交換しなければならないのか?魚など朝に市に行けば幾らでも売っている。ここで重要な事は、名をどういう意味と解するかである。現代では名とは、個人を識別する単なる戸籍謄本上の記号に過ぎないが、かつて封建時代では、個人の実体そのものを表すシンボルであった。三波春夫の俵星玄蕃「命惜しむな名をこそ惜しめ」のように、名とは武士の地位・身分だけでなく自分の生き様を示すものであった。つまり、人々は「名」によって個人を評価した。古代・中世ではどうか。平安末期には既に大名・小名という区別が出てくる。つまりここでは、領主が属する集団・部族の、土地・財産・住民・軍事力全てを包含した財力を表すものと考えられる。このエピソードから考えられることは、気比大神(=ケヒ族の長)が武内宿禰に、自分の持っている力(武力)をあなた方に貸そう、その替わりあなた方も私たちに「名」を与えてくれ、という意味であろう。
 ではこの「名」の交換取引は何のために行われたのか?これは疑問1)に立ち返って考えなくてはならない。まず当時の大和の状勢がどのようであったか?を考える必要がある。先年、先帝仲哀がみまかった。1年の服喪の後、皇后オキナガタラシヒメノミコト(=神宮皇后)は三韓征伐の途についた。このとき既に皇后は長男(=ホムダワケノミコト=応神天皇)を身ごもっていた。その後、皇子を出産するのであるが、これでは数字が合わない。皇子は実は先帝の子ではないのではないかという疑問が現れる。実際鎌倉時代に、ある禅僧が、応神は仲哀の子ではなく、タラシヒメと武内宿禰との不倫の子だろうと喝破している。皇子の出自に疑念が出されれば、国家は安定しない。各地に反乱の火の手が上がった。これを避けるために、皇后が皇子を禊ぎに名を借りて敦賀に避難させたのが実態だろう。
 では何故敦賀なのか?それは敦賀という土地の、地政学的位置付けに関係する。敦賀は、北陸道と近畿を結ぶ交易上・軍事上の要衝である。敦賀から北陸道を南に下り、木の芽峠を越えれば近江の国。更に下れば今津港。ここから船に乗り、長浜、大津浜を連ねる琵琶湖湖岸ルート(このルートは時計回りの湾流によるもの。コリオリ力により支配される)。琵琶湖北胡は、古代からの重要交易ルート。そして琵琶湖東部の水運を支配していたのが、神宮皇后の実家であるオキナガ氏。地理的親近性から見て、オキナガ氏と敦賀のケヒ族が協同・同盟関係にあり、或いは縁戚関係にあったと考えて不思議ではない。大和が騒乱状態になった時、皇后が我が子を最も信頼出来るオキナガ=ケヒ族に委ねたのは不思議ではない。
 その後、タラシヒコは天皇に即位し、後に応神天皇と呼ばれるようになった。これが「名」の交換の実態である。ケヒ族=気比の大神は軍事力を皇子に与え、逆に皇子が即位した後は、若狭湾の漁業権とか、社領の増大・社格の向上という「名」を得たのである。ではケヒ族ーオキナガ氏が実力を貯えたのは何か?北陸から近畿に入る物資には、米・水産物の他鉄製品やヒスイなどの宝玉品が挙げられるが、中でも重要なものは塩である。日本で塩の生産が瀬戸内、東海地方に移るのはズーット後の話し。古代では山陰ー北陸地方が塩生産の中心地だったのである。大和では塩を生産出来ない。塩の交易ルートを抑えられればお陀仏だ。皇子が大和を制圧出来たのは、敦賀を経由するケヒ族ーオキナガ氏の軍事力、経済力がバックにあったのである。
 そこで話しはメデタシメデタシで終わるのだが、そうはいかない。応神帝より10代、武烈帝は大変猜疑心が強く、皇位継承権者をみんな殺してしまった。その結果彼が死んだ後、皇位をつぐものがいなくなった。天皇がいなくなれば国は荒れる。卑弥呼時代の混乱に戻るfだけだ。これはイカンと思っているところに、越前敦賀に応神の縁戚に連なるオホドノオオキミなる者がいることが判った。応神に連なる者は彼一人である。だから彼を大王の座に、と言っても大和諸王はあれやこれやとイチャモンを付けてなかなか決まらない。決められない政治は今に始まったことではないのだ。そのため、オホドは16年も待ちぼうけを喰わされた。何処で待っていたかと云うと摂津三嶋郡。結局物部氏がオホド支持に廻って無事即位。後の継体天皇である。ここで出てきたのが三嶋郡と物部氏、それと北陸ー琵琶湖ルートとの関係。三嶋郡の王である三嶋氏と物部氏とは、オオモノヌシノオオカミ(出雲=須恵器製造)を介して協同・同盟関係にあった。何故物部氏はオホド支持に廻ったのか?物部氏はその名の通り、朝廷のモノ(物資)を調達する役割を担っていた。この時代のモノとはズバリ武器=刀剣である。北陸、湖東地域は当時出雲と並んで鉄器生産の中心地だった。その生産・流通を抑えていたのがケヒ族ーオキナガ氏だった。物部氏としてはオホドノオオキミは北陸・琵琶湖ルートを抑える最善のカードだったのである。**
 そして継体天皇こそが、現在の皇室の直系祖先。つまり、万世一系はここ敦賀に始まるのである。しかし世の中は皮肉なもので、後世仏教が伝わり蘇我氏が強大化すると物部氏は滅亡し、三嶋氏も次第に没落し、奈良朝期には所領の殆どを藤原氏に奪われ、歴史から消え去った。 
**なおこの話、神武東征記の神武天皇即位の話しにそっくりなのである。そこから、古事記後世創作疑惑が発生する。古事記という物語は、神武以前の様々な神話・伝説(中には縄文時代に遡る)から、それ以降の権力抗争の話しがゴッチャになっているのである。だから真に受けてもならないし、頭から無視してもならない。
(12/11/30)