コイズミは所詮、信長



 本正月、コイズミ首相はTVの「信長」を見て(私は見ていませんがね)、自分を信長になぞらえて、悦に入っていたらしい。別に、自分を何になぞらえても構わないのだが、信長になぞらえるところがコイズミらしい。所詮、コイズミは信長のレベルなのである。
 戦国時代の三大英雄といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が決まって挙げられる。その中で、一番大衆受けするのが信長、財界などの評価が高いのが家康。何故か両者に挟まれて秀吉の評価が低い。
 戦前は逆で、秀吉の評価が一番高く、家康は悪役タヌキ親父、信長は只のアホ扱いだった。江戸時代では、無論家康は権現様で別格だが、秀吉の評価も結構高く、「絵本太閤記」などの秀吉を主人公とした読み本・講談・歌舞伎芝居は、幕府も特に規制せず、京都の豊国神社・豊国廟は、幕府が直轄管理していたのである。家康の秀吉に対する特別の思い入れの結果だろう。それにくらべ、幕府は信長など知らん顔である。それは京都に行って、本能寺の信長供養塔の粗末さと、豊国廟の豪華さとを見比べれば一目瞭然である。
 信長、家康の評価が高く、秀吉の評価が低くなった理由は、60年代高度成長期に於ける文芸作品、特に司馬遼太郎と山岡壮八の小説、及びNHK大河ドラマの影響が大きい。特に後者は映像で入ってくるので、すり込み効果が大きい。
 これら作品の、いわんとするところをまとめると、次のようになるだろう。曰く信長は、旧秩序の破壊者。曰く信長は、中世から近世への橋渡し役。曰く信長は、日本で最初の近代人。従って、信長は日本歴史史上、有数のエポックメイカーである。曰く、家康は長期的視野にたって、戦略を考え、無用な争いを避けた。曰く、家康は、戦国の混乱を終わらせ、安定した秩序をもたらした。その徳川政権は、250年の長期に渡って存続した。それに引き替え、豊臣政権は、せいぜい20年位の短期政権であり、しかもその後半は、朝鮮出兵などの無用な出費を行い、日本の国富を消費した。若い頃はともかく、年を採ってからは、只の我が儘な頑固爺である。等々。果たしてそうでしょうか?
 人の価値は棺を覆って定まる、といいます。であれば、政治家の価値は、彼が残した政策の、後世への影響度で計られるべきなのだ。この点に立って、これら三人の功績を吟味することにする。

1) 信長
(1) 彼は、中世的価値の破壊者と例えられるが、正しくはそうではない。彼が生まれる100年も前から、中世は崩壊している。中世崩壊の象徴は、下克上による政権交替である。父信虎自身、下克上でのし上がった大名だし、彼が京都に進駐したとき、幾内の大名は下克上だらけ。まともな家筋のものは誰もいなかった。彼は中世末期の混乱に乗じて、覇権を乗っ取ったにすぎない。丁度、コイズミが自民党の混乱に乗じて、総裁ポストを奪いとったのと同じである。そして。コイズミが奪権当時に具体的な政策を持っていなかったと同様、信長も政策を持っていなかった。織田信長が、どういう政策を作り、それをどう後世に残したか?はっきり言って、さっぱり思い付かない。
 楽市楽座の制や鉄砲をいち早く取り入れた、と勘違いしている人も多いだろうが、楽市楽座(今で云う売り上げ税制、小さい政府の奔り)は既に近畿各大名は取り入れており、鉄砲は信玄が既に採用している。つまり、彼は既に行われていることを真似しただけなのだ。丁度、古くさいサッチャリズムやレーガノミックスの猿まねを、カイカクだー、と叫んでいる何処かの馬鹿総理と同じである。
(2) 守旧勢力との戦い、とか近代的指導性などは、後世、特に高度成長期以降の司馬遼史観による想像(でっち上げ)にすぎない。確かに彼は、周囲の大名達と戦い、守旧勢力とも戦った。しかし、それが何のためで、将来にどんなメッセージを残したが、さっぱり見えてこないのである。と言うより、具体的には資料としては、何にも残っていない。信長に対抗した守旧勢力の代表には、比叡山や一向宗といった仏教勢力がある。これに対し、信長がやったことは比叡山を焼き討ちして僧侶を殺し、伊勢長島で一向門徒を虐殺しただけである。要するに、自分に楯突く連中に喧嘩を売ってきただけだ。これで天台宗が潰れたわけでも、一向宗が無くなったわけでもない。むしろ、余計に勢力を強化して、武家勢力に対抗している。これに対し信長は、近畿に於けるキリスト教の布教を認可した。毒には毒を、というわけだ。これを放置すると、日本はとんでもないことになるのだが、それは後述する。
(3) 「天下布武」というスローガンがある。武力による天下統一である。ところが日本は縦に細長い。そこに群雄が割拠している。それを一々武力で従えていこうとすれば、統一まで三百年ぐらい掛かってしまう。コイズミのカイカクスローガンと同じで、中身の無い言葉だけのイメージなのだ。
(4) 近代人である証拠の一つとして、非情の統率者という性格が挙げられる。コイズミも世間からは、そう云われるし、本人もそう思っているようだ(私はそう思わない。結構情に脆い、公私混同しやすい性格だと思う)。しかし、古代でも中世でも、非情の統率者はいたのだ。例えば、西洋ではアレキサンダー大王、ロシアの雷帝イワン。東洋では秦の始皇帝、日本でも源頼朝は十分非情だったが、これらの人達を、誰も近代人とは云わない。非情だったのは、単なる彼の性格である。それより、彼が得意としたのは、近代的な政策闘争よりは、中世的謀略だったのである。

2) 秀吉と家康
秀吉と家康は相対立する勢力ではないか、と思う人もいるかも知れないが、それは秀吉死後のことで、それも政策上の対立などではない。むしろ、徳川幕府の政策の多くは、その起源を秀吉に依っている。つまり、秀吉政権と家康政権は連続しており、日本の近世政治の基礎は秀吉が作り、家康はそれを踏襲したに過ぎない、ともいえるのである。秀吉が関白になってから行った政策の幾つかを眺めてみる。
(1)天下惣無事令
これは、「大名間のもめ事を勝手に武力で解決するな、俺のところへ持ってこい、俺が解決してやる」、という意味。つまり、各国大名の交戦権を奪うということを目的としたものである。その為に治部・刑部の両官をおいた。徳川体制下では、武家諸法度という形で法制化された。
(2)諸大名の大阪参勤
諸大名に、妻子を人質にして、大阪参勤を命じている。これは後の参勤交替制の原型である。無論これに従わない大名もいる。例えば、薩摩の島津、相模の北条、奥州の伊達など。これらを従わせるために行ったのが九州征伐、北条攻めで、さすがの伊達もこれにおそれをなして、秀吉に従うようになった。
(3)刀狩り
中世、戦国では農民と兵士の区別は殆どない。動員令が掛かれば、農民は直ぐに兵士に変身した。戦国末期、日本の農村には莫大な量の武器が隠匿されていたのである。これを回収しなければ、いくら天下惣無事令を出しても画に描いた餅。大名から交戦権を奪おうとすれば、その手段である武器を取り上げねばならない。一方で兵士は山賊と変わらない。昼間鍬で畑を耕している農民が、夜には山賊にかわるのである。これでは商人は物騒で仕方がない。それでガードマンを雇うことになる。コストが高くなり、思うように商売が出来ない。そこへ武器が無くなるとなれば、治安がよくなるので、商人は安心して、商売に専念できる。結果として、地域経済が活性化する。この結果、以後の日本は、江戸時代から昭和に至るまで、世界一の治安良好国家になった。更に、鎖国体制下で、経済成長を遂げるという奇跡も、刀狩りのおかげである。未だに武器規制が出来ない何処かの国の大統領に、聞かせてやりたいくらいである。
この刀狩りは、徳川体制下での、士農工商という封建身分秩序の固定化に繋がっていく。
(4)仏教教団との和解とキリスト教布教の禁止
信長の時代に、信長政権と仏教教団との関係は最悪になっていた。坊主と喧嘩した政権が長続きしないのは、古今東西普遍の法則。仏教教団は日本最大の宗教集団だから、長期政権を目指せば、関係改善に入るのは当然。そこで、秀吉は比叡山や高野山に大枚の寄進を行って、関係を修復した。家康の場合、彼のブレーンだった天海・崇伝は天台宗の坊主。その後、幕府は檀家制を持ち込んで、仏教による民衆統治を始めた。これでは、仏教側が文句を云う訳はない。これにより、徳川300年の太平が維持されたのである。
さて問題はキリスト教との関係である。既製仏教を嫌っていた信長は、新思想としてのキリスト教に飛びつき、これの近畿での布教を許可した。これだけなら、彼を単なる新らしもの好き、或いは新思想の理解者と片づけられるかもしれない。しかし、ことはそれほど簡単ではない。それは、当時のヨーロッパに於けるカトリック教団の状況を考えなくてはならない。
 11世紀、ヨーロッパには急速にカトリック教圏拡大運動が高まり、11世紀末以降、十字軍という現象を生み出した。しかし、13世紀半ばには、カトリックのドイツ騎士団が、ノブゴロド公アレクサンドル率いる正教徒ロシア軍に敗れ(チュード湖の戦い)、末には、中東方面の東方十字軍がアッカでイスラムに敗れて、地中海に追放され、東方への拡大は頓挫した。更に15世紀半ばには、タンネンベルグで、ドイツ騎士団・北方十字軍連合軍が、ポーランド・リトワニア連合軍に敗れて、東方へのカトリック拡大運動は消滅した。その反動として発生したのが、西方への拡大である(西方十字軍)。未だキリスト教を受け入れていない地域をキリスト教化し、白人が支配・指導する世界を築く。これが神から与えられた使命(ミッション)である。これには二つの流れがある。一つはレコンキスタと呼ばれるイベリア半島での対イスラム戦争、もう一つはアフリカ・新大陸への拡大である。後者の延長は喜望峰を回って、東旋回し、アジアにやってきた。16世紀、スペインはフィリピンを征服(1577)し、次はいよいよ黄金の国ジパングである。スペイン人の征服活動には、一定のパターンがある。まず、辞を低くして、王にキリスト教布教許可を願い出る。もちろん、大枚の贈り物(つまり賄賂)も忘れない。アジア・アフリカの王は、一般に宗教に寛大で、賄賂に弱いことが多いから、願いは直ぐに聞き届けられる。布教は、単なる街頭宣伝だけではない。まず、慈善活動や医療活動を先行させて、民衆の警戒心をなくする。その過程で、神の愛だとか、キリストの救いなどの刷り込みを行う。こうやって、信者が地域住民の一定割合に達すると、いよいよ行動に移す。古くからの神を、悪魔の使いとののしったり、神々の寺院・神殿に押し掛けて、破壊・焼き討ちなどの暴力行為をけしかける。そうなると、既存宗教側も黙っていられないから、教会やキリスト教徒を襲撃したりする。ついには、国王が鎮圧のため、軍隊を出動させる騒ぎになる。すると、キリスト教の宣教師は、これを「弾圧だ!」と叫んで本国に救援を求める。実は、キリスト教艦隊が沖で待機していたりするのだが。武力では圧倒的に差があるから、結局その国はキリスト教徒に征服されるのである。
 ザビエル他のキリスト教宣教師の真の目的は、トロイの木馬となって、キリスト教軍を日本に招き入れるための下準備を行うことだった。それにまんまと引っ掛かったのが、信長他のキリスト教理解者やキリシタン大名達。最悪の場合、日本は十字軍に侵略されていたかもしれない。こう書くと、単なる反キリスト教主義者の、タワゴトのように見えるかもしれないが、戦後のスペインの研究によれば、当時、スペインフィリピン総督が、日本の長崎か平戸を占領して、そこを拠点に日本全国をキリスト教化する計画をたて、それを国王のフェリペ四世も認可していたことが判っている。スペインによる日本征服計画はあったのだ。但し、この計画は、フェリペ四世の死、それに日本に於ける最大のキリスト教庇護者であるノブナガの死(1582)によって延期され、更にアムステルダム沖海戦で、スペイン無敵艦隊が壊滅してしまった(1588)ので、結局中止せざるを得なくなった。無敵艦隊の壊滅により、スペインの海上覇権は失われ、遠いアジアの事などに関心を向けていられなくなったのだろう。その後、スペインはアジアを撤退し、アフリカ・新大陸の経営に専念するようになった。これを契機に、スペインの国力は低下の一途を辿る。替わりに登場してきたのが、オランダ、イギリスといったプロテスタント諸国である。
 さて、信長に替わって日本の覇権を手に入れた秀吉は、突然「日本は神国だ」と言ってキリスト教布教を禁止する(1587)。秀吉は現実派の武将・政治家である。それほど信心深かったとは思えないし、彼の配下には結構有力なキリシタン大名或いはキリスト教容認者がいたのだ。例えば、高山右近だとか。腹心の黒田官兵衛(息子の長政は正真正銘のキリシタン)とか。従って、この決定は、現実的な政治判断によるものと見た方がよい。当時、東南アジアには、多数の日本商人が進出していた。これらの内、有力商人の何人かは、秀吉と直接のパイプを持っている(茶屋四郎次郎など)。秀吉は、彼等の情報からスペインの動きを察知し、先手を打ったと考えた方が判りやすい。突然の高槻城主高山右近の明石転封、それに続く国外追放措置は、その辺りを物語っていると考えられる(高槻は京都・大阪の中間にあり、西国街道・淀川の水運を押さえる戦略上の要衝)。
 もし、信長が生きておれば、スペイン軍の侵攻は、現実の物になったかもしれない。それに対する反発もある(これは信長、キリスト教に対する反発が二重になる)ので、日本は宗教戦争の波に呑まれ、本当に九州の一部とか西日本全体が、ヨーロッパの植民地になっていたかも知れない。これも、信長の(何処かの国の総理大臣と同じ)支離滅裂な性格と気まぐれによるものである。
 秀吉のキリスト教禁止令は、その後徳川体制下でのキリシタン禁令として、受け継がれ拡大強化された。
(5) 検地
 最も典型的な国家権力の行使は、徴税である。これまでは、各大名が支配地域の慣例に基づいて、独自の方法で徴税を行っていた。税収の算定根拠になる検地も、各大名独自である。その税収は大名のものであって、国家のものではない。これではとてもじゃないが、統一国家とは云えない。始めて全国統一検地を行ったのが、秀吉である。これにより。公共事業・軍役といった、公的負担は石高比例で、各大名の負担となった。国税と地方税の分離のようなものである。これも徳川幕府により、踏襲されたが、元禄惣検地が最後になった。大名・農民の抵抗が強かったのだろう。今、法務局がやっている確定測量も、税額根拠を作るためだから、現代に於ける検地と云って良いだろう。
(6)鉱山の利権独占
 秀吉以前の日本の鉱山利権は、各大名により個別に管理運営されていた。これは、キリスト教の容認と同じくらい、国家の独立にとって危険な状態である。もし、ある大名が鉱山の開発・運営を外国に委ねたら、鉱山利権はその国に移ってしまう。インドやアフリカ・中南米諸国が簡単にヨーロッパの植民地になったのは、地方領主が鉱山利権を勝手にヨーロッパ人に譲り渡したからである。秀吉は、全国の鉱山利権を独占し、各大名が勝手に外国と取引することを禁止してしまった。これは、日本統一通貨を発行するためにも必要な措置である。この政策も徳川幕府により継承されている。

鉱山利権の独占を、単に秀吉個人の欲望と考えるアホ歴史家とか歴史教師がいるが、とんでもない間違い。そもそも、鉱山というものは、国家が一元管理しなければならない性質のものである。中国もローマ帝国もインドも、国家が鉱山を一元管理していたときは国力が充実していた。それをさぼりだしてから、ヨーロッパ植民帝国に狙われて、落ち目になっていったのである(ここのところは少し難しく、ヨーロッパ植民帝国に狙われ出してから、さぼりだしたとも考えられる。一例を挙げると、インドのムガール王朝は、遅くとも18世紀 には、イギリス東インド会社からの年金生活者になり、自国の鉱山経営には興味を失ったらしい。この結果、インドの政治・経済の実権は、イギリスに握られた。その反動が1857年の「セポイの乱」なのだが、これに敗れたため、インドはイギリスの植民地になったのである) 。
 日本の場合、国家を代表する権力機構は朝廷である。ところが、ある時期から、朝廷に国権を代表する気力も能力も無くなってしまった。そこで、平家とか幕府とかいった最高実力者が、国家権力を代行することになる。当時の最高実力者と言えば秀吉です。だから、秀吉が鉱山利権を独占し、国家の独立を護る義務が発生します。


(7)都市計画
 日本地図を開いて、各地の主要都市を見てみると、全部ではないが、特に姫路・岡山・広島・福岡・和歌山・高知など西日本都市には共通した特徴がある。@概ね戦国末期に建設されている。A立地地点が主要な河川の河口デルタか、そのやや上流にあたる。B市街地(高度成長期以降の新市街地を除く)の街路は、碁盤の目状になっている。C市街地からやや離れた小山に城郭がある。これらの特徴は、大阪をモデルにしたものである。それまでの都市は、各所に鍵型の辻やT字路を設け、わざと道筋を判りにくくする。城郭も、都市と無関係な山の上に築かれる(山城)。これは、都市計画や築城目的を、純粋に軍事目的に絞り込んだからである。信長の築いた安土城は純粋の山城であり、信長も又、中世的価値観に囚われていたのである。安土城を天下の名城などと、云う人がいるが、何故、名城といえるのだろうか?安土城は、現在跡形もない。只の遺跡になっている。これは、信長の後継者が、この城は不要、と判断したからに他ならない。何故不要かと云うと、山城だからバックグラウンドが狭すぎて、大人口が収用出来ず、近世都市が形成出来なかったからである。一方の大阪城は、大阪夏の陣で一旦破壊されるが、その後幕府によって再建されている。敵方であった徳川幕府も、やっぱり大阪城は必要だと判断したのだ。こういうのを名城というのである。
秀吉は、天下統一の拠点を築くにあたり、大阪を拠点に選び、従来とは全く概念が異なる都市計画を行った。
@ 大阪は淀川三角州を埋め立てて、作ったものである。市街を河口近くに設けたのは、当時の交通の大動脈である瀬戸内海に面していることと、内陸交通の主役が水運だったことによる。また、大人口を抱えるには衛生上も、河川の近くが有利だからである。これは、彼が最初に所有した城が、琵琶湖水運の要であった、近江長浜だったからかもしれない。
A 碁盤の目状の街路は、始めてきた人間にも道筋が判りやすい。つまり、物流が円滑に進み、経済が活性化する。
B 城郭を都市の中心部に置かず、脇に置いているメリットは、まず市民にとって日常的には威圧感がなく、商業に専念できる。一方、全く離れた場所でもないので、いざというときの安心感も与える効果がある。
 つまり、都市計画のメインコンセプトを軍事ではなく、商業・流通に求め、その機能を最大限に発揮出来るような、都市計画を行ったのである。その他の戦国大名達も、「もう戦争の時代ではない、これからは民政だ」と考えて、一斉に大阪モデルの都市造りを採用したのではないか。この風潮に最も遅れたのが、江戸である。家康、と言うより彼の家臣団やブレーン達が、未だ中世戦国の残映を引きずっていたのだろう。

以上のことから、近世日本の諸システムの基礎を作ったのは、豊臣秀吉であって、家康は単にその路線を踏襲したか、拡大強化したに過ぎない、と結論される。まして信長に至っては、日本の近代化にとって、具体的には何の貢献もしていないのである。彼は中世末期に突然現れた変異ウイルスのようなもので、実際彼が行った事も、中世的謀略の典型と云えるものが少なくない。例えば、義弟の浅井長政に対する裏切りや、将軍足利義昭の暗殺など。つまり、織田信長は日本を建設する政治家ではなく、常に覇権を求める「政局の人」なのである。
 
 信長とコイズミは性格的にも才能としても、二流の人間ということが共通だが、最大の共通点は権力奪取時の運が良かった、という点がある。信長にとって、最大の幸運は、義父斉藤道三の死と、その子の義竜がボンクラだったということである。もし、道三が長生きし、義竜も天下を狙える器量があれば、信長は只の尾張の変わり者で終わっただろう。義竜がボンクラだったため、美濃の民心は、今川打倒実績のある、娘婿の信長に集まる。おまけに、他の諸大名達は、内部抗争やそれぞれとの対立抗争の方が忙しく、とても京都までは手が届かない。この権力の隙間を利用して、信長はクーデターを起こして、簡単に美濃を手に入れる事が出来た。後は京都まで一気に駆け抜けるだけ。当時の幾内は下克上の横行で、中小勢力が分立し、バラバラの状態。誰も彼等をとりまとめる者がいない。そこへ、今川打倒、美濃乗っ取り(今で云うM&A)、と言う実績のある信長が進駐してくれば、一つこれと取引してみようと云う人間が現れて当然。摂津伊丹の荒木村重など、その典型。村重がなびけば、俺も俺もと言うわけで、高山・池田などの摂津諸将が、皆信長になびいた。今回の総選挙で、各派閥の親分が、民営化賛成に回れば、子分がみんな従ったのと似たようなものである。
 コイズミの場合、彼にとって、最も幸運だったのは、小渕の死と、後継者だった森がボンクラだったことである。この点で、森を担ぎ上げた野中・青木の罪は万死に値する。これさえなければ、コイズミは自民党の只の変人で終わったかもしれない。コイズミを祭り上げた一人に田中マキコがいる。これなど、さだめし、荒木村重か?村重も信長に忠誠心を疑われて、遂に滅亡する運命になった。似てますねえ。コイズミ覇権を天命とする人もいるだろうが、筆者は、そうはとらない。要するに、総裁派閥である橋本派に、足利幕府と同様、人材が無くなってしまったからである。従来総裁を決めてきた橋本派は、その起源である田中派から比べると、トップの器量は代々小粒になってきていた。これも足利幕府と同じ。何処から始まったか、というと竹下登からである。この元島根県会議員以来、橋本派だけでなく、自民党の派閥領袖が、みんな人物的に小粒化してきた。何が小粒化というと、官僚とべったりになって、官僚の振り付けどおり踊ることが、政治家の役目と心得るようになったのだ。この結果、橋本派に人材が払底し、挙げ句の果てにコイズミというキワモノ、ヤクザに政権を乗っ取られる羽目に陥ったのである。下っ端が親分を越えることは出来ない。親分を追い越す下っ端は、出ていくか、消されるしかないのだ。

 但し、信長政権とコイズミ政権とで違う点もある。信長政権の場合、信長死後混乱はあったが、最終的には、秀吉という、バランス感覚の良いO型人間が政権を掌握し、拡散していた問題点を収束させた。これにより、日本は一つの安定成長期に入ったのである。一方、コイズミ政権の場合、後継候補者がコイズミ路線の踏襲をアピールするのみ。この程度なら、小学生でも出来る。要するに、コイズミの縮小再生産ばっかりで、面白くも何ともない。コイズミ自身が中身のない、カラッポの典型なのだから、その後継者などロクデナシなのは当たり前。本当の意味での後継者、混乱の跡の収束者が、今いないのが問題。唯一その候補者は福田康夫だが、これは気質から云うと家康。秀吉がいないのが、今の日本での最大の問題点。
(06/01/16)


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