《石原伸晃の非常識》

2、またまたやってくれました石原伸晃の非常識(05年02/06サンプロでの発言);
 コイズミ派対反コイズミ派の対決・・・というわりには役者がみんな小物。反コイズミ派の田中康夫長野県知事が、やおら国・公団と長野県との公共事業一般競争入札比率の比較を示したフリップを取り出し、長野県では一般競争入札が80%を越え、発注価格が平均で20%ダウンした。しかし国発注事業では、未だに指名競争入札が80%を越えている。合理化努力が見られない、と詰め寄った。これに対しコイズミ派のノブテルがどう答えたかというと、「明治は日本も一般競争入札でした。しかし戦後、ある公団が建てた(住宅公団のことか?)建物の壁が10年程経って剥がれるという事故が発生した。これ以後、品質を保証するために指名競争入札になったのです」。本気でこんなたわごとを信じているのだろうか?本気だとしたら、よっぽどの馬鹿かお人好し。非常識もきわまりない。とってつけた嘘を堂々と喋っているなら、とんでもない大うそつき。いずれにせよ政治家としての資質に欠けるとしか云いようがない。
 入札制度は、国の物品調達制度の根幹を成すシステムである。それが、たかが公団住宅の壁の損傷ぐらいで変わるわけがない。明治以来の一般競争入札制度を辞めて、指名競争入札制度に変更したのは、昭和13年の国家総動員法である(なお、この事実を田原総一郎他のコメンテイターやゲストが誰も指摘しなかったのが、二重の驚きなのだが)。これにより、日本も本格的な戦時計画経済体制に移行した。これは、生産計画を国(軍、官僚)が作成し、それに従って民間企業が生産を行い、生産の効率化を図ろうとするものである。しかし、民間企業はそれ自身独自の意志をもった組織であり、必ずしも官の計画どおりに動くとは限らない。民間企業に自発性の仮面を被せて、実際は強制的に国家経済に従事させる手段として採用されたのが、指名競争入札制度なのである。この結果、官の財に対する優位性が確立された。つまり、指名権を行使することにより、官僚が民間企業を、意のままに操ることが出来るようになったのである。ではこれで思ったとおりの効果があっただろうか?戦争中は非効率と無駄の塊にすぎなかった。飛ばせる飛行機は底を付いているのに、航空魚雷が鎮守府の倉庫に山積みされていたり、とっくにその時代はすぎているのに、零戦神話にしがみついて、零戦の生産を優先させたばかりに、必要兵器の生産が遅れたり、という具合である。もう特攻しか手段が無ければ、簡易な特攻専用機に生産を絞ればよいのに、高価な零戦を相変わらず作るセンスが理解できない。当時世界最高水準に達していた、5式戦「烈風」まで特攻に回していたのでは、なにをか況やである。生産と運用が全く一致していない。これも計画経済の弊害である。官僚というものは、そもそも実態を見ずに、縦割り縄張り組織の中に安住するものである。計画経済と言うものは、縦割りを破壊して横割り組織にいれかえなければならない。その基本動作を怠って、形だけ真似したからこういう事になったのである。
 ところが、一旦染みついた習慣はそう簡単には消えない。指名競争入札制度は戦争遂行を目的として採用されたのだから、戦争が終われば辞めると思っていたら、やめなかった。何故なら、肝心の戦争中は全く無効果だった、この戦時経済システムは、むしろ戦後の復興・高度成長期に、真の効果を発揮したのだった。この時期は、ダム、高速道路、新幹線、大規模干拓等大規模事業が目白押しで、需要が供給を大幅に上回った時期である。政治からは事業拡大、予算消化を要求される。予算を確実に消化するためには、指名競争入札制の方が有利である。第2の戦時経済体制だったと云えよう。又、この制度により、価格の高騰を抑えられたという利点があったのも事実である。なお、この制度の副作用として「談合」という悪習が発生したのも、この時期である。つまり、我が国公共事業の最大の癌とされる「談合」は実は国家総動員法の副産物だったのである。
 しかし、高度成長もドルショックで終わりを告げた。今度こそ本気で、総動員体制を辞めれば良かったのに、やっぱり辞めなかった。官僚の天下り先確保が理由である。高度成長期は企業側も余裕があるから、官僚OBも気軽に引き取ってくれるが、景気が悪くなると途端に冷たくなる。そうははさせじと、天下りを確保するのに指名制を強化してきたのである。我々の業界で云えば、高度成長期のOBは殆ど技術屋だった。ところがこの時期(昭和50年代以降)には、ゴミのような事務屋まで我々の業界に天下りするようになったのである。

 以上が指名競争入札制度の実態。真因は官僚のエゴ、自己保身にあるのだ。さて、田中知事の云うように、一般競争入札は全ての救い神になるだろうか。否!これにも問題があり、運用に当たっては十分警戒しつつ進めなければ、とんでもない副作用に見舞われることになる。
 先ず長野県が単価切り下げに成功したのには、次の二つの理由がある。
(1)入札参加資格をオープンにして、県内業者の談合を阻止した。
 それはそれで良いのだが、この状態だと、長野県は他県業者の草刈り場になってしまう。極端ないいかたでは、長野県民の税金で、他県業者を喰わせているようなものである。これでは県内業者はやっていけないし、不満がつのるのみである。これを避けるには、隣接各県と、「お宅の業者がウチの入札に参加して貰っても構わないが、お宅の入札にもウチの業者を参加出来るよう取りはからってくれ」といった相互貿易協定を結び、全体としての自由貿易圏(FTA)を形成することが必要である。
(2)コイズミ改革のせいで需要が供給を下回っている。
 市場価格は需要と供給のバランスで決定される。これは誰でも知っている資本主義の原則である。反コイズミの田中知事が、コイズミ改革で救われているのは皮肉であるが、実際国の公共事業が激減しているから競争が激化し、結果として価格の下落を招いているのは事実である。何故、こうなるかというと、長野県の場合、ダムという大型工事が消えたため、県道の改良とか復旧治山事業と言った、大したことのない事業しか残らなかった。ダムを大学生レベルとすれば、小中学生レベルの事業だけになったのである。一方、業者側も発注量低下に備えて、ベテラン技術者のリストラを進め、若手の給料の安いのしか残らなくなった。ダムのようなややこしい工事は無理でも、簡単な工事ならこの程度で間に合うし、給料が安い分採算にも乗るのである。要するに、小中学生でも何とか対応出来る、一時の僥倖に助けられているにすぎない。今後、業者の淘汰が進み、需給バランスが逆転すると、一般競争入札では、落札価格の高止まり現象が発生するおそれがある。

 つまり、入札方式にはこれがベストという確実な方法は無い、というのが結論である。その時の経済・社会情勢を見通して、最適の方式を選んで行かざるを得ないのである。要は方針の切り替えのタイミングを外さないことである。日本は既に2回、このタイミングを外している。(05.02/09)


1,石原国土交通大臣;「社長と幹部社員とで財務諸表の見方が違っておれば、社長が辞めるのが民間会社の常識でしょ;
 さてそんな常識があるでしょうか。商法では社長を解任出来るのは、取締役会の議決だけです。幹部社員と財務状況の解釈に違いがあっただけで社長が首になるのなら、その会社は社長より経理課長の方が上だと云うことになります。そんな会社の株を買って大丈夫でしょうか。要するに道路公団の幻の財務諸表(以下”幻”)が正しくて、それに反対するものは全て悪だと云いたいのでしょう。ところで”幻”は公団の課長補佐クラスの人間が作成したと云われる。彼らは公認会計士、或いは税理士資格を持っているのでしょうか。会社の財務諸表の作成は、有資格者で無くてはなりません。それ以外の人間の作成によるものは、単なる参考資料です。法的根拠も法的拘束力も無いのです。又、その正確さについては専門家から疑問の声が挙がっています(9/21毎日新聞経済欄。加古早大名誉教授の談話)。つまり、”幻”は公団財務状況を正確に現すものではありません。第三者により、公団財務を公正・客観に評価すると、債務超過にはならないということです。しかしながら、石原大臣や、イノセ某という小説家を始めとする、いわゆる改革派やマスコミは、”幻”が正しいと主張する。これは彼らにとって、道路公団が債務超過であること、が必要なのです。イノセ、あれは何者だ。議員でもなく官僚でもない。只の小説家だ。但し売れているかどうかは知らない。筆者は彼の作品を読んだことももなければ、どんな作品「があるのかも知らない。世間の大部分の人はそうじゃないですか。道路公団問題が世間の眼にさらされるまで、イノセという小説家を知らなかった人の方が多いでしょう。そういう人間が民営化推進委員会やマスコミに登場して、道路公団が債務超過であることを煽る。世間の人は、これに惑わされ、これに反対する意見をことごとく排除する。全く中世の魔女狩りだよ。彼はまさしく日本のキャンベルだ。
 では何故、石原大臣と小泉首相ら改革派は、道路公団を債務超過にしたいのでしょうか。小泉の目的は、明らかに、にっくき橋本派の牙城の一つである、道路族をねらい撃ちにして、橋本派を壊滅に追い込むことにあります。その手段に道路公団を利用するのです。その次は橋本派を分断し、小グループに孤立化させて、各個撃破に向かう作戦を採るでしょう。宣戦布告の大義名分として、どうしても道路公団を債務超過にしておかなければならないのです。これは、全くイラク戦争で、米英が行ったと同様の情報操作です。石原は単にそれのパシリ。青木、村岡もその程度のことは判っていたはずなのに、何故派閥を裏切って小泉の手に載ってしまったのか、それがよく判らない。やっぱり、モーロクしたのでしょうねえ。いずれにせよ、今回の自民党総裁選は、従来にも無かった露骨な派閥権力闘争だったのです。こういう一連の事件の筋書きを書いたのは、おそらく飯島 勲首相秘書官でしょう。
 それと四国支社長に飛ばされた片桐某。あれこそ一体なにものか。一躍マスコミによって、悲劇のヒーローに仕立てあげられたが、内部資料をわざわざマスコミを通じて世間に出すなど、普通のサラリーマンが思いつくことではない。裏に糸引く誰かが居るに違いない。彼自身が官邸から送り込まれたスパイか、公団民営化後の処遇を餌に、小泉か石原に裏切りをそそのかされたか、のどちらかだろう。しかし、青木、村岡、片桐らのような、裏切り者の末路は哀れである。

既にご存じと思いますが、かつて片桐調査役を四国支社に配転するとき藤井元道路公団総裁のもとに、飯島首相秘書官から「片桐を左遷するな」という電話が入ったと云われる。この件に関し、首相サイドは否定している(ヤフートップページから「飯島 勲」で検索するとその記事に当たります)が、火のないところに煙は立たない。おまけに近藤新総裁は就任早々に片桐を本社に呼び戻す人事を行っている。片桐が裏で首相サイドと繋がっているのは間違いない。


 天正10年、織田・徳川連合軍は、突如、甲斐・信濃に侵攻した。武田累代の部将は、競って主家を裏切り、織田・徳川に加担した。しかしその中で、その後名を残したものはいない。馬場美濃守といっても大概の人は、誰だろうと思うだろう。唯一、徳川に対し断固抵抗した、真田のみが名を残している。男は闘うべき時には闘わなければならない。
 だからといって公団が免責される訳じゃないし、このままで済む筈がない。良くて民営化、悪けりゃ廃止だ(筆者個人としては廃止が筋と思うが、管理主体をどうするか、という問題が残っている)。昔々、電電公社が民営化されたときに(その時は建設企画コンサルタントという会社にいた)、道路公団も民営化するのかと思って、冗談で「株式会社NDK(日本道路公団の社内的略称)」と大きい声で喋っていると、「横井さん!何言ってるんですか。東名、名神は儲かっても中国道など儲かるわけないでしょ!」と設計部長に怒られたことがある。その時、何処をどうしたのか、民営化を免れた。あのとき民営化しておけば今度のようなことにはならなかったはずだ。一時の火よけを望んだばかり、全てを失うことになった。火事の方向の見定めを間違えたのだろう。

1-2)道路公団総裁更迭劇は結局小泉、石原の負け:03/10/09
 03/10/05の突然の道路公団総裁劇に際し、筆者は家内に「藤井総裁が地位保全訴訟に訴えれば、政府が負けるだろう」といったら、事態はその通りになりそうな気配である。何故なら、どんな組織にも職員を首にするにあたっての規則はもっているが、道路公団も一つの役所だから、解職規定は役人に都合が良いように出来ているからである。それに裁判官も役人だから、いざとなれば役人が不利になる判断をするはずがない。これは全応力的な判断であるが、有効応力的に考えても藤井総裁解任は無理がある。結論からいうと、藤井総裁はどういう形であれ、辞めるでしょう。にやにやとほくそ笑みながら。
 まず、必要条件から考えてみよう。解任に当たって必要な条件として次のようなものが挙げられる。
1)本人の健康状態
  これは問題はない。
2)任期
 公団総裁には任期は無いだろうが、一般には4年ぐらいが限界だろう。藤井総裁は00年3月就任と言われるから勇退してもおかしくはない。しかし、強制力を持った解任の理由にはならない。
3)公団に対し損害を与えた。
 具体的にどのような損害を与えたか、立証出来なければ裁判は維持出来ない。系列会社に対し不当利益を与えている、との主張は可能であるが、これは公団の損益バランスの中で判断される。”幻の損益計算書”では債務超過(赤字)になっているにも拘わらず、系列会社に利益を上げさせているのは役員としての特別背任=商法違反に当たる、という見方もあるが、”幻の損益計算書”そのものの法的正当性に疑問がある以上、この件の立証は困難と思われる。
 石原大臣はこの件について「藤井総裁の説明に納得いかなかった、私が納得できないものを皆さんが納得出来るはずがないでしょ」と言い切っているが、何故そういえるのか。大臣の頭が悪いだけではないのか。馬鹿と一緒にされては困る。
4)説明が二転三転し、現場を混乱させた。
 筆者の印象では、藤井総裁の説明が必ずしも二転三転しているとは思えない。問題は”幻”が存在したのかどうか、それが公団の正式資料として認定されるものか、どうかである。専門家の意見によれば、これはプロの作った「財務諸表」と云える物ではない、らしい。
 なお、国会での藤井総裁の答弁は実に人を喰ったもので、筆者もこれを見て「何だ、この野郎」と思った。これにより国会軽視と見られたのかもしれない。しかし、かつての外務省や川口外務大臣の答弁と比べ、国会軽視の程度はあまり変わるとは思えない。川口や外務省の役人の首を斬った上で、藤井総裁に引導を渡すのなら納得も出来るが、あの程度で首を斬るのはおかしいだろう。なお、現場を混乱させているのは、方針も定めず無駄な議論を重ねている「公団民営化推進委員会」や、何でも丸投げの小泉総理、判断能力の無い石原大臣の責任の方が大きいだろう。
 次に十分条件について検討する。仮に藤井総裁が更迭に同意したところで、重要なことは業務を円滑に引き継ぐことである。そのためには更迭以前に後任者を選定し、族議員を含む周辺にも同意を得ておかなければならない。そういう根回しはしていたのだろうか。仮にしていたとしても、問題がここまでこじれると候補者の側から断られてしまう。ことは政治問題に発展しており、従って民間人の起用は無理である。だからといって、官僚OBとすれば「公約違反だ」、と野党やマスコミにたたかれる。つまり、進むに進めず、退くに退けない状態に陥っている。
 何故こうなったか。明らかに、公団総裁人事を選挙日程と絡めた姑息なやり方が自分の首を絞めているのである。冒頭に云ったように、藤井総裁は辞めるでしょう。問題は後任だ。いざとなれば、石原大臣兼任か、民営化推進委員の誰かに犠牲になってもらわなければことは収まらないのじゃ無いでしょうか。
(追記)
(1)10/12サンデープロジェクトで、石原大臣は「騙した人間と騙された人間とではどちらが悪いんだ。私は騙されたんだ。」と主張した。それに対しある評論家が「政治の世界では騙した人間も悪いが、騙された人間も悪いんだ」と諭した。しかし彼はなおも納得せずふくれっ面をしていた。全く子供だよ。年は幾つだといいたい。政治、特に外交の世界はだまし騙されの世界だ。日本は敗戦寸前にソ連に和平仲介を打診したが、見事騙されてソ連に領土を占領されてしまった。国際社会でソ連の行為を非難した国は無い。我々の仕事でも役所に騙されて赤字を作っても、誰も同情してくれないどころか、赤字の責任をとらされるのが関の山である。石原大臣の育ちの良さは分かるが、政治家としては無能としか云えない。テレビでワアワアやって目立つことしか能が無いんだから、頭の悪いジャリタレかお笑いタレントといったところだろう。
(2)10/17に聴聞会があって、国土交通省は藤井にコテンパンにやられた、当然でしょう。役者が違う。その時石原はなにをしていたかというと、ある哲学者のところに相談に行っていたらしい。今の日本に哲学者などいるのか。どこかの占い師か呪い師だろう。あのサンダバだって、インドじゃ哲学者なのだから。大臣がカルト頼みになっちゃ、もう末期症状だね。
(3)昨日10/18、藤井側が石原、阿部らに対し名誉毀損その他で告訴すると発表した。大変良いことだと思う。
 @バブル崩壊後、多くの人達が訳の分からない理由でリストラされている。それらの人達のためにも、理非曲直を明らかにすること。
 Aいわゆる”幻の財務諸表”の正当性が裁判の場で争われることになる。藤井側は専門家による証拠鑑定を申請するだろう。石原側も対抗上鑑定申請しなければならなくなるが、果たして石原側につく鑑定人が出てくるかどうか疑問である。質を問わなければ、幾らでもいるかもしれないが。


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