小泉発言とノモンハン


 最近の小泉発言の中で特に、衆目を集めたのは、今期臨時国家冒頭での、党首討論での、「自衛隊の行くところが非戦闘地域である」という発言であろう。これに対し、民主党の岡田は、その後、どう質問して良いか分からず、うろたえてしまう。コイズミ発言に対しては、与党議員からも、思わず失笑を買う始末。ところがコイズミ本人は、「あれはいい答えだった!」と悦にいっている。マスコミの追求も、先手をとられたのか、まるっきり迫力がない。
 ところで、筆者は、これとそっくりのやり方が、今から約65年前に起こり、結果として大惨事をまきおこしたことがあったのを思い出した。それは昭和14年夏、ノモンハン事件の前段である。主役は、当時の関東軍作戦主任参謀服部卓四郎と、参謀辻政信である。この頃のソ連、満州国境は、甚だ曖昧で、しばしばモンゴル兵の越境が相次ぎ、紛争の火種になりかねなかった。その第一線がノモンハン地区である。昭和14年5月13日、国境守備を担任した第23師団では、師団長小松原道太中将が、国境紛争を処理するため、関東軍から下達された『満ソ国境紛争処理要綱』を、部下全部隊に徹底するための会議を開いた。その前々日、前日に外蒙古軍の国境侵犯が続いた。これがノモンハン事件の発端である。この顛末を、半藤一利「コンビの研究 文藝春秋社 1988」から引用する。
「・・・『満ソ国境紛争処理要綱』は、関東軍作戦参謀辻政信少佐が主となって起草し、作戦主任参謀服部卓四郎中佐が証認、強力に推進することにより、司令官植田謙吉大将の名の下に関東軍作戦命令として発せられたものである。
 『国境におけるソ軍(外蒙古軍を含む)の不法行為にたいしては、周到なる準備の基に、徹底的に傭懲し、ソ軍を慴伏せしめることによってのみ、事件の拡大を防止し得る』という強硬な方策にその主意があった。そして、国境線が不明確な地域においては、防衛司令官が「自主的に国境線を認定し・・・・・兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」ことが命じられていた。 『国境を自分で認定する』というような、あまりにも積極的な作戦指導に、発表に会同した参謀長の一人が、『これを本当にやってよろしいと云うことかね』と反問し、満蒙に布陣する各師団の参謀長会議は笑いにつつまれた、というエピソードが残されている。関東軍参謀長磯谷廉介中将が『書かれた通りにやって結構です』と照れくさそうに答えるのに、かたわらの辻参謀がきっとなって言い放った。
 『やってもらう、それが命令です』
 小松原師団長が、外蒙軍の越境にさいして即座に攻撃命令を発したのは、だから関東軍命令に忠実な処置といっていいのである。・・・・・」
 この結果がどうなったか!第23師団の攻撃命令で出撃した、東騎兵連隊はソ軍機甲部隊の前に壊滅した。更に、続く第二次ノモンハン事件では、第23師団そのものが、壊滅してしまったのである。それどころではない。この事件のあと暫くして、辻・服部は参謀本部に復帰し、陸軍の主方向を対英米戦に主導し、遂に国を滅ぼしてしまったのである。
 さて、例のコイズミ発言と、辻作戦指導の間に、どういう共通点があるでしょうか?一つは、誰でも分かりますが、客観性の無い、自分勝手な判断基準を、全体の行動規範にすり替えていることです。第2は、この判断基準が自分勝手であるが故に、他者は、その中身が直ぐに掴めない。だからそこで議論が途絶え、訳が分からないままに、全体のムードが引きずられてしまうことです。そして、結果として、誰も責任をとらない、システムが出来上がってしまうのです。
 違い「は、辻の場合、そもそもは辻或いは服部を含めた、中堅幕僚のおごりにベースがあるが、明確に自分の意志があり・・・辻独自のものか、服部との共謀かは、判らないが・・・・上司(植田関東軍司令官)まで根回しを済ませている。つまり関東軍司令部の共通意志にまで仕立て上げている。一方、コイズミの場合、党首討論という公開の場で、岡田の追求に興奮して、思わず口走ったのが真実だろう。しかし、この意表を衝いた反則攻撃に、岡田がたじろぎ、マスコミもどうしていいか判らない状況を創り出した。これに味をしめて、彼のおごりがますます増長し、気がついたときには、引き返せないような状態になっているかも知れない。
 コイズミのやばさは、以前から判っているが、今の最大の問題は、それに歯止めを掛けるシステム、歯止めを掛けられる人物がいない、ということです。岡田じゃなくて、加藤に期待せざるを得ない、という点が最大の悲劇です。いや喜劇か?04/12/01


(参考 辻政信の末路)
 参謀辻政信は、その後参謀本部戦力班長として、対英米戦を強力に推進します。太平洋戦争が始まると、第25軍参謀としてマレー作戦を指導。作戦中、匿名で手記を新聞社に送り、一躍「覆面の天才参謀」として、マスコミの寵児になります。その後は、主に大本営派遣参謀として、バターン作戦、ガダルカナル戦、ビルマ作戦に姿を現しますが、強引な作戦指導、軍令を無視した越権のみが残り、昭和陸軍最大の悪逆無道、軍人の恥としてしか名を残しません。
 ところが、彼は戦後、政界に復帰し、自民党参議院議員となる。しかし、70年代初頭に突如姿を消すのです。これに関し、政治家もマスコミも、皆口をつぐんで何も言いません。彼が失踪して、10数年後、文藝春秋にある記事が載りました。辻政信のその後に関するものです。全ては記憶していませんが、そこでは次の3説を紹介していました。
1)ベトナムに潜入し、北ベトナム軍顧問として、対米戦を指導している。
2)ラオスに潜入し、ラオス国軍顧問として、対パテオラオ戦を指導している。
3)ラオスに潜入しようとして、中国に渡ったが、中国南部で林彪麾下の解放軍に逮捕され、処刑された。
 1)、2)のケースは殆ど考えられないので、私としては、3)のケースが一番高いと考えている。いいですか、現職の国会議員が突然行方不明になっても、マスコミや野党はおろか、与党も議会も、全く動かなかったのですよ。どういうことでしょうか?丁度、当時日本は日中国交回復交渉の最中だった。その中で、辻という人物の存在は、双方の指に刺さった刺のようなものにすぎない。お互い、こんなのは抜いて捨ててしまおう、ということになったのだろう。現職の国会議員でも、国家間の利害の前には、簡単に見捨てられるのが現実。


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