令和最初の鎌倉旅行


 令和元年5月15日、家族で鎌倉まで行ってきました。思った通り大変な人手。それも外人観光客だけでなく、修学旅行団体が三つも四つもやってくるので大変。昨日は家族で鎌倉に観光旅行。行きの新幹線は豊橋で転落事故はあるは、帰りの横須賀線では東海道線の人身事故で東戸塚で1時間程待たされるは散々でしたが無事戻ってこれました。(19/05/169)

   鎌倉旅行の番外です。これは極楽坂切通しの海側斜面。極楽坂は鎌倉時代に小さな峠道を開削したと伝えられています。現在の極楽坂が当時のものとは考えられませんが、のり面に沿って垂直にノミの跡のような筋が見えます。おそらく手彫りです。現代では機械掘削だから、こんな跡は残らない。江戸時代かせいぜい明治の頃の作品ではないでしょうか。
(19/06/11)
    これは本日ネットで見つけた「世界の絶景写真」の一部です。海に崖が張り出し洞窟が開いています。この洞窟はどうして出来たのでしょうか?従来の説明では海の波蝕です。しかし波だけではこんな洞窟は作れません。原因は岩盤の中の割れ目に沿う空洞の拡大と陥没です。
 洞窟の両脇に右上から左下方向に伸びる割れ目が見えます。おそらく数万年前にこの割れ目にそって空洞ができ、それが次第に拡大成長して今のような状態になったのでしょう。左の陸地と右のブロックを繋ぐ陸橋もいずれは崩壊し、右のブロックは離れ小島になります。江の島もこうやって出来たのでしょう。
(19/06/05)
   鎌倉旅行の最終点は「鶴ヶ岡八幡宮」。元々鎌倉権五郎の御霊社だったのを、源氏がこの地を支配するようになってから、八幡神を招来したという説もある。社域は広く立派だが、社殿は新しく作りも粗っぽい。奈良京都のそれを見慣れた我々関西人にとっては、いささかお粗末。ケチな武士が支配していたせいで、高給の宮大工が集まらなかったのか、それとも武士が華美な装飾を嫌ったためか。
    さて江の島ですが、島の頂部が平坦になっている。ことが分かります。これは20~30万年前に出来た海岸段丘です。つまり何万年か前までは江の島は本土と繋がった半島だったわけです。その後何らかの理由・・・地震でしょうねえ・・・で、中間の岩盤に割れ目が入り、そこから空洞が成長し、とうとう陥没を起こして島になったのでしょう。
   鎌倉の次は江の島。江の島なら弁天様。弁天様のお堂でついうっかり写真をとってしまったが、あとで注意書きをみると、館内撮影禁止だった。しかし撮ってしまったものは仕方がない。
 弁天はバラモン教のサラスバテイー。水と芸能の神とされる。それが中国・日本に伝わる間に金銀財宝・商売繁盛の神になってしまった。
   江ノ電踏切下の民家。マリンスポーツ用グッズ販売店らしく、サーフボードなんか置いて、いかにも「湘南!」というイメージ。こんなのにあこがれるのがいるんだろうねえ。
   ご存知鎌倉大仏。実はこの大仏、表面をよく見るとあちこちに銅板の継ぎ目がある。つまり仏像は幾つかのブロックに分けて鋳造し、それを後から貼り合わせたことが分かります。
 これを現代風に言えばブロック建造方式といいます。第二次大戦中アメリカはこの方式で空母始め艦船の大量建造に成功しました。その間日本は相変わらずの伝統工法。能率は三倍以上とも言われます。これでは戦争に勝てるわけがない。勿論現代の造船工法はこれが標準。それどころかPCもスマホもみんなこの方式で組み立てています。
 現代企業も鎌倉時代の職人に学んだ方が良い。
 
   
 
写真は源氏(源頼義、義光親子による騙し討ちで殺された鎌倉権五郎の怨霊を祀った御霊神社。これはわたくしも以前から興味がありましたが、意外と簡素と云うか質朴。鎌倉は源氏の本拠地になったから、冷たくあしらわれたのか。
 全体として鎌倉の寺社建築は、京都・奈良の高度な建築を見慣れた関西人にとってはいささかお粗末。高級宮大工がいなかった所為か?それとも鎌倉武士がケチだったせいか?