横溝正史と、艮(うしとら)御崎(おんさき)神社/井原鉄道と高梁川


横井技術士事務所  横井和夫              


 先日、家族と一緒に播州赤穂から倉敷、岡山県真備町方面を旅行してみました。真備町は、かつて戦争中に横溝正史が疎開して、「本陣殺人事件」とか「八つ墓村」など金田一耕助シリーズの構想を練ったところで有名ですが、今や町を挙げて横溝正史関連事業を展開中。伯備線「清音」駅を降りると、併設している井原鉄道に横溝正史ミステリーマップなるものが置いてあって、それを頼りに真備町中心部を歩いてみました。
 この中で、ワタクシが特に注目したのは、下図のほぼ中央に示した「艮御崎神社」です。



 

 下の写真はこの神社の正面です。鳥居の前に2本の石の柱が立って、注連縄が張られているのが判ります。これは鳥居の原型とも云われる古い形式ですが、関西には奈良櫻井の大神神社を始め幾つかその例が見られます。


 注連縄は神域と俗域を分ける結界を表します。結界とは俗界の穢れが清浄な神域に侵入するのを防ぐため、と言うのが一般的な説明ですが、逆に「強力な霊力を持つ悪神」を、この中に閉じこめるためのものという説もあります。「強力な霊力を持つ悪神」とは何者でしょうか?それは、かつて稲作農業とともに列島にやってきた、アマテラスを頂点とする天津神に抵抗した先住民の神、国津神のことと考えられます。
 神殿に近づいて、脇を見ると祭神のリストがありました。全部は覚えていませんが、大体次のような神々です。
  須佐男命
  大国主命
  建御名方命
  事代主命
  ヤマタの大神
他に、国常立命、天御中主尊の名前が見え、名も知らぬ神も幾つか。ここで注目されるのは、いわゆる天津神とされる神は祀られず、更に多くは出雲系の神です。敵同士であるはずの、須佐男とヤマタの神が同時に祀られているのが特に注目されます。実は須佐男とヤマタは仲間だったのか?筆者がかねがね思っているのは、ヤマタの大蛇とは出雲地方の金属鉱脈、又はこれを採掘する金属民、又は彼等の祖霊神。ヤマタ族とでも云っておきましょう。須佐男は元々アマテラス族の一部だったが、主流派に逐われて、居住地の高天原から出雲にやってきた。高天原とは何処か?朝鮮半島かモンゴル高原か?須佐男は一宿一飯の恩義で、ヤマタ族と争いこれに勝利し、ヤマタ族を従えたのである。これ以後、ヤマタ族と須佐男・出雲族との同盟関係が成立した。これに危機感を感じたアマテラス族は健雷尊らを派遣し、出雲の国譲りを実現させた。これで済めばアマテラス側の一方的勝利だが、必ずしもそうではない。出雲は一旦アマテラスに征服されたが、その後出雲によるヤマト征服計画もあったと考えられるが、それはここでは触れない。
 さて、この神社の頭につく「艮」と言う言葉だが、これですぐに思い出すのが、大本教の主神「艮の金神」である。これは国常立命のことで、かつて縄文時代初期に南方より渡来し、列島を開拓した祖先のリーダーの霊である。その後、天津神によって逐われ便所の神に落とされた。それが2000年あまり後突然蘇り、丹波綾部の貧困老婆出口ナオに憑依し、世直し・国の立て替えを要求したのである。この言葉や祭神から見て、この神社が地域の人間の深層心理に深く根付いていたと考えられるのである。国常立の原産地は何処か?おそらくポリネシア辺りから沖縄を経由して列島に渡来したのではなかろうか?
 厳しい自然と闘う古代民は、これら神々と常に対話しながら生活していたと考えられる。彼等を神々を結びつけるもの、それは呪術・マジナイではないか考えられる。「先代旧事本紀」は偽書であるが、最近は聖徳太子云々の表書きは偽物だが、中身はホンモノではないか、特に大和朝廷に滅ぼされた物部氏や尾張氏の、大和朝廷によって消された伝承・慣習をそのまま伝えているのではないか、という考えが強くなり、見直し・再評価が進んでいる。その中に「十種の宝」というものがあり、それらを持って衣のひれをひらひらと揺らして「ひい、ふう、みい、よお、・・・とう」と唱えると、願い事は全て叶い死者も蘇ると云われる。
 こういう世界では、地縁・血縁で固く結ばれた閉鎖社会が形成される。団結心が強く、決して他者に心を許さない。しかし共同体の中では互いに助け合い、落伍者を出さないよう協力しあう。横溝作品の特徴は、複雑な地縁・血縁と、それに翻弄されるドロドロした人間関係が事件のベースを作ることである。ユングによれば、人間の意識(深層心理)はその土地の祖霊と結びつき、支配されると云う。そう考えれば、横溝作品のベースを作ったものは真備町という土地、それを支配していた古代吉備王朝とその神々の、現代社会への思いであろう。

道路は旧山陽道、川辺本陣付近。今では国道400何10号線だかになっている。
 この辺りが「本陣殺人事件」の舞台。但し本陣そのものは既に取り壊されている。
八つ墓村に出てくる「濃い茶の婆」が出てくる祠。左の道路の突き当たりが横溝正史疎開先。
正面の一軒家が横溝正史疎開先。庭は手入れが良くされており、なかなかのもの。
 疎開先の庭。
横溝正史が小説の構想を練るために、ほとりを散策していたと云われる「大池」。正面は「弁天堂」で、旧領主岡田公の休憩地だったらしい。

井原鉄道と高梁川

 
真備町には井原鉄道というローカル鉄道があります。

清音駅に停車している井原鉄道のデイーゼルカー。思っていたより近代的でした。
 清音大橋から見た高梁川。もの凄く川幅が広く、500m位はあるでしょう。この河川敷、現在は遊水池として用いられていると思われます。
 これだけ見ると、現代のダム反対論者は、先人の知恵だ、と大喜びでしょうが、そうはいかない。下流に山が迫り急に川幅が狭くなっています。このため、この地域は何度も洪水に見舞われたに違いない。下流の川幅を広げようにも、下流の倉敷は岡山藩領。40数万石の大藩である。一方、真備の岡田藩はたった1万3千石の外様弱小藩。力関係がちがう。岡山藩からお前とこでなんとかせい、と言われると言い返す言葉もない。その結果、岡田藩は泣く泣く田畑を削って地域全体を遊水池にしたのだろう。だから、この藩は明治までズーット貧乏だった。この方針は明治新政府にも受け継がれ、結局今のような遊水池兼用河川敷が出来上がったのだ。もし、岡田藩がもっと強力な政治力を持っておれば、下流の河川改修をやらせたり、明治になってからも上流にダムを作らせるなどで、増収を計れただろう。
 下流に井原鉄道の鉄道橋が見えます。
川辺宿駅に入構する井原鉄道のデイーゼルカー。この辺りはPC連続高架橋。
 この車内が結構ゴージャスでとてもじゃないが、田舎鉄道と馬鹿にしてはいけません。JRなど足下にも及ばない。
 正面が高梁川を渡る井原鉄道のトラス橋。この橋梁の線形は実は曲線を持っており、なかなか複雑な構造です。設計も施工も結構難しい。

 上で挙げたPC連続高架橋と言い、このトラス橋と言い、地方の一民間鉄道が出来るような代物ではない。おそらく、国・県の金を使って旧鉄建公団が作ったものでしょう。

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