書評    「ダイオキシン  神話の終焉」2003.3 日本評論社 1600

      著者 渡辺 正、林 俊郎

      評者 (有)横井調査設計  横井和夫

 本書の全般的な書評は2003/3/23毎日新聞朝刊に掲載されている。評者もこの書評を読んで本書を購入した。従って、詳細な紹介は避け、評者にとって興味のあった部分を紹介したい。
 まず、著者であるが、著者の一人である渡辺氏は70年東大工(工業化学)卒、現在生産研教授、林氏は71年東京農大農芸化学卒、現在目白大教授。両者ともこの種の環境本に多いジャーナリストや市民運動家とは異なり、プロの学者である。本書は全6章からなり、前半の第1〜3章は渡辺氏、後半の第4〜6章は林氏の執筆となっている。

 前半では主にダイオキシンやその他の毒物の性質と毒性についての講義、特に単位系について判りやすい解説が述べられている。結論は、ダイオキシンの毒性について世間で云われているようなことは「殆ど科学的根拠に基づかない神話か言いがかり」のようなものだ、ということである。この中で著者が「今は子供の理科離れが問題になっているが、それより問題なのは大人の理科知らずである」と云っているのが評者にとって印象深い。当に同感である。かつて某与党指導者が「スプーン一杯でニューヨークを全滅させるだけの炭疽菌をイラクは1万g持っている」とTVで喋っていたが、ここにも質量と体積の単位取り違えがある。
著者がある小学校での理科の問題を紹介している。「塩化ビニルを燃やすとどういう物質が出来ますか、次の四つから選びなさい(二酸化硫黄、窒素酸化物、ダイオキシン、水)」。評者の解答は水である。また、著者による解答も水であった。だから、評者の化学的知識は小学生よりはましだと思ったのだが、学校正解はダイオキシンらしい。

 後半は主に「所沢ダイオキシン」騒ぎとそれに関連する騒動に対する批判的論述である。この部分が評者の本書購入のきっかけになったので、毎日新聞評とラップする部分もあるかもしれないが、その点はご容赦願って少し詳しく紹介してみたい。

 第5章で「埼玉所沢ダイオキシン」騒動1を解説している。本章では次の3種のグラフが示されている(著作権の関係があるので、ここでは示さない)

(1)(所沢市の新生児死亡率/埼玉全県新生児平均死亡率)と所沢地区での産廃焼却量の時系列変化……図6.1
(2)所沢地区の新生児死亡率、埼玉全県新生児平均死亡率と所沢地区での産廃焼却量の時系列変化……図6.2
(3)所沢地区と所沢地区での産廃焼却量の関係……図6.3

 少し判り難いが、(2)が原始資料で(1)(3)はそれを加工したものである。この中でメデアに登場したのは評者の記憶では(1)だけではなかったろうか。

11996/10/21テレビ朝日放映とそれ以後の騒動

(1)について
 これは所沢市新生児死亡率の埼玉全県平均に対する比(これをn1とする)を時系列(3点移動平均)で現したものである(1997埼玉NPOデータ)80年以後この値は1.0を越えその後上昇しているようにみえる。一方、所沢市内での産廃焼却量は77年、85年、90年、94年の4段階で急増する傾向があり、特に90年、94年で著しく、それぞれ指数関数的オーダーで増加している。ところがn1はそれほど大きな増加傾向はない。特に最も問題なのは(これが本書の主眼であるが)94から96年にかけての3年間のn1データがブランクになっていることである。3点移動平均だから両端1年のデータはなくても構わないが内側2年分のデータはなくてはならない。

(2)について
 所沢地域も埼玉全県地域でも、新生児死亡率は所沢地区の産廃焼却量に無関係に…双曲線的に…減少している。無論、所沢地区の新生児死亡率は 80年から95年の間は埼玉全県平均を上回っているが、焼却量が急増する95年以降ではむしろ埼玉全県平均と同じか下回っている。それと評者にとって疑問なのは80年以前では所沢地区の新生児死亡率は全県平均を下回っている、という点である。つまり、80年以前では新生児死亡率が全県平均を上回る地域が他にあったはずである。そうでなければ平均値というものは存在し得ない。その点の説明がないため、(環境NGOの)主張そのものが疑われることになるのである。

94から96年にかけてのブランクは著者の云うようにデータの変造或いは作為があったと云われてもやむを得ないだろう。データ作成者に統計の知識がもう少しあればこのようなみっともないことにはならなかったと思われる。

この種のデータ変造について思い出されるのは、数年前の関電MOX燃料に関する英国核燃料公社のデータねつ造事件である。ねつ造データの一部が毎日新聞に掲載されていた。それを見て驚いたのは、とにかくねつ造が下手なのだ。ねつ造者だけではなく、関係者の誰もが…関電・動燃も含め…統計のイロハを知らなかったということである。高校生でも少し数学や物理を知っておれば、もっと巧くデータをねつ造出来ただろう。その程度の低レベルの話しである。

(3)について
 各年度の産廃焼却量と新生児死亡率との間に全く関連は見いだせない。

 以上、3種のグラフの概要を示したが、評者の眼ではこれらから得られる結論は次の3点しかない。

(1)1980年から1994年にかけて所沢市で新生児死亡率が埼玉県平均を上回った時期はあった。
(2)しかし、新生児死亡率は70年以降順調に低下しており、これと産廃焼却量との間には何ら関係はない。
(3)従って(1)で挙げた現象は産廃焼却量とは別の要因に求められるべきである。(おそらくは全く無関係な数字上の偶然)

 意地の悪い解釈をすれば、所沢では産廃焼却は新生児死亡率低下に寄与したということになる。

 そして、ある種の人物・団体がダイオキシンを産廃焼却に関連付けるために新生児死亡率の増加(あくまで埼玉全県平均に対して)を利用したのだろう。彼らの活動結果が、9921日のテレ朝ニュースステーション所沢産野菜の残留ダイオキシン報道になる。評者はこの報道を聞いた時、少し腑に落ちない気がした。99年当時の日本の食糧自給率は20%かそこらであり、所沢産野菜の殆どは東京の青果市場に送られ、そこから全国に出荷される。つまり、所沢のスーパーに並んでいる野菜の大部分は中国産で、所沢の主婦が所沢産野菜を食べるとしても、それは極めて少量である。その程度で新生児死亡を発生するのだろうか。しかし当時は「そこのけ、そこのけダイオキシン様が通る」という時代で、評者も「ダイオキシン騒ぎを利用して何かビジネスを」などと不謹慎なことを考えていたのだから、そんなことを口に出せる筈がない。そんなかんやで「所沢産野菜の残留ダイオキシン」が一人歩きしてしまったのだろう

 所沢産野菜ダイオキシン騒動の火付け役の一人に「環境総合研究所」青山氏がいる。彼はその後所沢農民から風評被害で告訴される。この間、インターネットを見ていると同氏のサイトに同事件で勝訴(さいたま地裁)したという記事が掲載されていた。但し、これは一審判決であり控訴審ではどうなるか判らない。一審程度ではあまり安心しない方がよいでしょう。一審判決が二審でも支持される確率は大体3割程度らしい。


 その後の控訴審判決で原告側逆転勝訴(つまりテレ朝に責任あり)となり、最終判断は最高裁に持ち込まれている。

 ところで、埼玉NGOの中に調査担当のTという人物がいる。著者によれば物理探査のエンジニアということである。ひょっとするTは同業者かもしれないので、念のため「応用地質学会」と「地質学会」の会員名簿をあたってみた。幸いにしてどちらにも該当する人物は登録されていなかったので、一安心した次第である。

 様々な観測データを実際に採取したり、与えられたりしてそれを解釈し、それから何らかの結論を出すというのは我々地質屋の仕事の大きな部分である。対象がN値やquであったり環境指標値であったりするだけの違いである。依頼者がある意図を持って迫ってきた時、地質屋は真面目であるだけに乗せられてしまう可能性は高い。T氏がその典型かもしれない。特に環境問題は対象がデリケートであり、地質屋のポジションはしばしば問題の核心に近い処にあることが多いだけに、対応は他分野の技術者以上に慎重であるべきだろう。本書は一般向けの入門解説書であるが、我々専門家を自称する集団においても自戒の書として一読の価値があると考え紹介する次第である。(2003/3初稿、2003/5改訂


筆者の内、林は本書の中で「ダイオキシン等対策特別措置法(いわゆるダイオキシン法)」の施行により、殆ど科学的根拠もないまま全国に膨大な数の処理施設が建設され、莫大な予算が浪費され、それがメーカーの利権に繋がることを懸念している。メーカーの背後に議員がいることは顕かである。かつての大阪市環境局平野工場汚職に見られるように、ダイオキシン対策が一部の役人や政治家の利権の対象になっているのである。それと同じことが、日本の防衛に対して行われようとしている。
 03年11月総選挙後のアンケートで、自民・民主両党で若手議員を中心に26%の議員が日本の核武装に賛成か又は考慮すべきと答えている。その根拠として日本には十分な量のプルトニウムと製造技術があるから核兵器製造は可能である、とする。筆者の原子核物理に対する知識は最早古いかもしれないが、発電用原子炉から出てくるPu239では原爆の役には立たず、又プルトニウム型原爆は極めて高精度の起爆装置が必要だから、核実験をしなければ実用可能かどうかは判らない。常識で考えれば、日本の何処かに黒鉛型原子炉を建設し、そこにPu239を戻し、中性子の再照射を行って原爆型Pu239に作り直し、その後日本の何処かで核実験を行うという手順になるはずである。そんなことが現実に可能かどうか、少し考えれば直ぐ判る。にも拘わらず核武装を推進するのは何か裏があるはずだ。民生用公共事業が最早飽和状態になった現在、核兵器開発はそれに替わる公共事業として成長が期待出来る。とにかく予算を採って、国民から追求されても「核兵器製造は難しい。実用化は未だだ。もっと予算が必要だ」と云っておれば、幾らでも予算を食いつなげる。有り難い話ではないですか。