日本皇道主義と建国記念日・国歌・国旗・・・・・この問題を右翼の立場から解明します。
(結論)
紀元節・国歌・国旗と騒ぐ輩は、皆左翼思想にかぶれた非国民である。
自民党こそが天皇制廃止を目論む真の逆賊である。

ここで云う左翼とは、共産党とか、赤軍派のような教条主義的マルクス主義者ではありません。日本の近世以降、天皇を排除し、政治・経済の実権を握った、官僚・政治家・財閥のことです。具体的に言えば、江戸時代では、林大学頭に代表される幕府儒学者、現代では、東大(特に法学部)・自民党・旧大蔵省・現宮内庁といったところ。天皇よりも、政治の優越性を主張する輩である。


 ワタシからアベ晋三へ「坊やあ  いい子だねんねしな、起きてこなくていいのだよ」
 世の中に国家が出来たことを示す記念日は多いが、大部分は独立記念日とか、革命記念日。北欧諸国にはキリスト教受容を記念日とするケースもある。この中で神話伝説を根拠とする国は、日本と韓国だけである。海を挟んでアホが向かい合っているわけだ。
 そもそも日本右翼が2/11を根拠とするのは日本書紀の記述とするが、現実には天皇交替を中国の辛卯革命説に依ったもの。つまり、日本建国記念日は中国に倣ったわけで日本独特のものでも何でもない。最近の日経平均が、アメリカNY市場に左右されるのと同じで、体制が大国の動きに左右されるのは、今も昔も変わりない。
14/02/11)

皇太子、宮内庁を批判
 そりゃそうでしょう。現皇室、特に皇太子夫妻と宮内庁とでは、始めから肌も違うし、馬も合わない。現皇室、特に男子皇族は、昭和天皇以来、学者の家系で、おまけに理系に偏っている。皇太子は、歴史学が専門だが、センスは理系そのもの。それは何故かというと、正月「歌会始め」の御製を見れば判る。とにかく歌が下手なのだ。和歌を学ぼうという姿勢すら感じられない(弟の方が、まだましな気がする)。要するに、和歌のような間接的・情緒的世界は、肌が合わないのだろう。記者会見等での、皇太子の発言から類推すると、情よりは理を重視し、感性よりは知でものを考えるタイプと思われる。昭和天皇がそうだったから、孫もそうなるのである。お后の雅子は、と言うと、彼女の専門は国際政治学。法学部は日本では、文科系に分類されるが、政治学、特に国際政治学の世界に、情が入り込む余地はない。これも又、理工系の社会なのである。つまり、二人揃って、理系人間なのである。理系人間の特徴の一つに・・・善し悪しは別として・・・間接的表現より、直接的表現を好み、旧来の慣習(慣習とは、過去の経験の間接的表現である)維持よりは、慣習を変革したがる傾向がある。
 一方宮内庁という役所はどうかというと、現状維持・旧来の慣習護持、を絶対使命とした役所である。宮内庁長官とか、次長といった幹部職員は、他省庁(警察庁とか、内閣府)から、任期2年前後で派遣されてくるので、長期的視野で皇室のあり方を展望する気など、始めからない。その任務は、むしろ、皇族の監視である(戦前に皇族赤化事件というのがあった)。しかも、出身母体では、これ以上、居ても出世のおぼつかない、二流の連中か、役人OB。宮内庁というのは、先の見通しの無い、役人の掃き溜めなのだ。彼らは、自分のキャリアーに傷が付くことを、極端に恐れる(次官経験者の場合は、叙勲に関係する)から、任期内に何事も無いのが一番。皇族に余計なことをして欲しくないのである。これでは、両者の関係が疎遠になっても仕方がない。
 彼らにとって、今、一番の気がかりは、皇太子兄弟に、男子が産まれない事だ。直系男子を強硬に主張するのは、自民党保守派。宮内庁長官人事は内閣が決定する。従って、宮内庁も自民党のプレッシャーを受け、それが、皇太子夫妻への圧力になる。それが、全ての問題の始まり。


衣の下の鎧が見えたり、逆賊自民党。自民党の真の狙いは、天皇を担ぎ、忠臣を装って、権力を握り天下を乗っ取ることである。かつての蘇我氏・平氏・徳川氏に並ぶ逆賊・不逞の輩である。
 今国会の女帝を巡る参考人意見で、どちらかといえば左派・進歩派と云われるグループの意見が、女帝容認論である(これに共産党も同意しているのが面白い)のに対し、自民党は、直系男子が日本の伝統であるとして、女帝反対意見を陳述した。そもそも、女帝容認論が産まれた背景は、現皇太子とその兄弟に、男子が産まれていないため、最悪の場合、次代で皇統が絶えるおそれがあるからである。
 天皇制に批判的であるグループは、共産党まで含めて、女帝を容認してまでも天皇制を維持しようとしている。一方保守とされる、自民党はこれに反対する。その根拠となる男子直系原則は、日本の伝統でもなんでもなく、明治維新後の欧化政策、つまり耶蘇の教えによるものである。つまり、自民党主張は、我が皇国伝統の天皇制を、耶蘇の支配下に置こうとするものだ。又、もし男子直系にこだわって皇統が絶えたとき、日本は天皇制を廃して、共和制を指向せざるを得なくなる。天皇制主義者を自称する自民党は、実は天皇制廃止論者・左翼・耶蘇なのだ。さもなくば、どこからか、自分の云うこと訊く誰かを連れてきて、それを皇位につけ、背後で操る・・・つまり政治(自民党と官僚)が天皇を支配する・・・ことを意図しているのだろう。いみじくも、自民党船田元(こんな不倫議員が未だ生きていたのだ)が云った「天皇という権威ある存在を上に戴いて、権力を行使することが政治の在り方」がその意図を証明している。当にかつての蘇我氏、平氏、いや道鏡・東條に匹敵する悪逆無道の行いである。これを逆賊と云わずして何を逆賊というのか。なお、真の逆賊はしばしば忠臣を巧みに演ずるものである。2004/2/7


 インターネットで「建国記念日」を検索してみると、各国の建国記念日もしくは類似の記念日を公開しているサイト(フリー百科辞典Wikipedia)があった。それによると、Wikipediaが把握している、記念日を公開している国の数は87。現在の国連加盟国は191だから、100以上の国がこういうものを持たないのか? まさか、です。独立国の数が余り多すぎて、Wikipediaも把握しきれないのでしょう。
1、建国記念日について
 Wikipediaによれば「建国記念日とは、文字通り建国を記念する日であるが、何をもって建国とするかは、国によって異なっている」のです。とりあえず、Wikipedia のデータに基づいて、諸国の建国記念日の実態を眺めてみます。記念日の名称は、様々なものが用いられていますが、概ね(1)独立記念日、(2)革命記念日(共和国記念日というのもあるが革命記念日と同じ)、(3)建国記念日に分けられます。それぞれの分布は次の通りです。
    (1)独立記念日    62ヶ国(71%)
    (2)革命記念日    13 ヶ国(15%)
    (3)建国記念日   12ヶ国(14%) 
 圧倒的に多いのは独立記念日です。Wikipediaが把握していない、100以上の国の内、大部分は最近独立した国が多いと考えられるので、独立記念日の持つ寡占率はもっと高くなり、おそらく90%を越えるでしょう。それと興味のあるのは、この種記念日を持つ国が圧倒的に多いのは、アジア・アフリカ・中南米諸国で、ヨーロッパ特に北欧圏では、この種の記念日を持たない国が多い、ということです。特に、歴史の古い国に、その傾向が強い。その理由は、歴史が古いと、建国が伝説の霧に包まれてはっきりしないということと、特定の歴史事実を採り上げると、国家が分裂するおそれがある、ということでしょう。例えばイギリスの場合では、イギリスはイングランド・スコットランド・ウェールズの連合王国ですが、それぞれが固有の歴史・・・つまりそれぞれの建国記念日・・・を持っています。連合王国になったのも、イングランド以外の国にとっては本意ではない、つまりイングランドに併合されたという記憶は残っている。そこに単一の建国記念日を押しつけると、連合王国は再び分裂しかねない。だからそういう記念日は設けない。ドイツ・スペインも同様です。
 建国記念日といっても、その内容は国によって様々です。確実に建国神話に題材をとったものは、日本の建国記念日(紀元節)と、韓国の開天節だけです。海の向こうにアホがもう一人いたと思うと、何故か安心出来ます。日本の紀元は、今からおおよそ2650年程昔で、中国では戦国時代。日本と中国との間に、何らかの関連があったと考えてもおかしくはない。それが証拠に、江戸時代の儒者林羅山は、天皇家の祖先を中国亡命者という説を発表しています。一方の韓国は、大壇君伝説によるもので、紀元前2333年としていますから、今から4336年前、中国では夏王朝のあたりか?いずれにせよ伝説の彼方です。
 只、間違いの無いのは、名称が独立記念日だろうが建国記念日だろうが、国を神(又は神の後継者)が作った、と明確に主張しているのは日本と韓国だけで、他の国はみんな人間が作ったことを認めていることです。これを日本に当てはめることは、日本皇道主義の認めるところではありません。何故なら、森前首相がいみじくも述べたように、日本は「神の国」だからです。

2,国歌・国旗について
 国歌・国旗を最初に定めたのはイギリスで、16世紀のことです。その他のヨーロッパ諸国が、国歌・国旗を定めたのは概ね、19世紀後半のことです。何故イギリスで、こういうものを定めないといけなくなったかというと、イギリスという国はイングランド王国が、国王の結婚によって、ウェールズ、スコットランド各王国を併合して出来た国(連合王国)で、こういうものが無いと、国家としての統一が保てないからです。イギリス国旗に使われている色は、赤・青・白の三色ですが、赤はウェールズ王国、青はスコットランド王国、白はイングランド王国のナショナルカラーです。この色は今でも、サッカーやラグビーナショナルチームのジャージーに使われています。同時にイギリス国歌も定められています。しかし、これらを決めたのはイギリスだけで、他のヨーロッパ諸国は、全く関心が無かった。他の国が持っていたのは、国王旗・皇帝旗、国王・皇帝を讃える歌だけです。
 1789年、フランスに革命が起こり、19世紀初めにはナポレオンが率いるフランス軍がヨーロッパを席巻します。フランス軍の主張は、革命の理念によるヨーロッパの解放です。フランス軍の前には三色旗が翻っていますが、正確にはこれは未だ革命旗であって、国旗ではありません(正式にフランス国旗になったのは数10年先のナポレオン三世の時)。一方、周辺諸国軍では、どういうことが起きるでしょうか。当時のヨーロッパの軍隊は、常備軍は高くつくので最小限に留め、戦時に農民や都市の浮浪者をかき集めて、とりあえず軍服を着せ、即席の訓練を施して、インスタント兵士に仕立てるのが普通です。軍隊の前に翻るのは国王・皇帝旗。兵士はこれを見て、「これは王様の戦争で、俺達の戦争じゃない」と、脱走があとを絶たない。ある連隊が兵営を出発して戦場に着いたとき、連隊長が後ろを振り向くと、兵隊は皆脱走してしまって誰も居なかったという、嘘か本当か判らない話が残っています。こういう軍隊では、将校は戦争より脱走兵の取り締まりのほうが忙しくなるので、戦争どころではなくなってしまう。逆に、フランス革命軍では先頭に翻るのは革命旗だから、兵士一人一人に「これは俺達の戦争だ」という意識が産まれ、脱走がなくなる。そうすると、将軍・将校は戦争に専念できる。どちらが勝つか議論の余地は無いでしょう。唯一、フランス軍に対抗出来たのは、国王・皇帝旗ではなく国旗を持っていたイギリス軍だけです。これが如何に、他の保守反動諸国にショックを与えたかは容易に想像出来ます。
 しかし、ヨーロッパ各国が国歌・国旗を定めたのは、これだけが原因ではありません。ナポレオンはヨーロッパの解放といって、実はヨーロッパを横取りしましたが、革命の芽は草の根レベルで、ヨーロッパ中に撒き散らされたのです。ナポレオンから数10年後、ヨーロッパ各地には、国民革命の嵐が吹き荒れます。特に風力が強かったのは、オーストリア・バイエルン・ザクセンといった、中部ヨーロッパ保守諸国です。若きワーグナーも、革命過激派の一員として、当局の指名手配を受けました。彼ら革命派は、当時は皆左翼と見なされていました。これに危機感を抱いた、保守諸国は左翼人民の要求するまま、憲法制定・議会制度・政府の優越制といった改革を行います。つまり、国王・皇帝の上に(国民の請託を受けた)議会・政府が権力を行使するという制度が産まれ、そのシンボルとして制定されたのが、国歌・国旗なのです。これらの施策は全て左翼思想の現れです。こういう制度のもとでは、国王・皇帝は国旗に敬礼し、国歌が吹奏されている場では、国王・皇帝も起立しなければならないのです。これも又、日本皇道主義の認めるところではない。

3、日本皇道主義の流れ
 通常、政治思想には、@右翼、A左翼、B保守反動の3種類があります。これらはどういうように区別出来るのでしょうか。まずこれから検討しましょう。右翼・左翼の起源は、一般にはフランス革命後の国民議会で、過激派が議場の左側に、穏健派が右側に議席を占めたことに由来すると云われます。では中間は無かったのでしょうか。あったはずです。それは議場の中央部を占領した、新興ブルジョワジー(あるいは中産階級)と呼ばれる階層です。彼らは既に資産をしこたま貯め込み、且つ既得権益を持っていました。これを国王・貴族に取り上げられるのが嫌で、革命に参加しただけですから、彼らは国王・貴族といった、特権階級さえいなくなれば、国家システムは従来の方が良いのです。本質的には旧体制の後継者、既得権益の相続人です。右翼や左翼が突出した政策を採ろうとすると、必ず舵を逆に引き戻す。だから、彼らは保守反動と呼ばれる。
 一方、右翼・左翼というのは、そもそも旧体制下で食えなくなったか、うだつが上がらない連中が作ったセクトです。旧体制が腐敗・堕落し、人民を統治する能力を失った、従って旧体制を打破し、既得権益を奪取した上で、自分達の望む政体を構築しようとする点では共通しています。但しやり方が違う。
 左翼は@旧体制の堕落は、過去の古い体制をそのままにしてきたのだから、過去を切り捨てるべきである、A遠い将来に理想世界を構築し、それと現在とを相対化し、その距離を縮める努力をすべきである、Bその理想モデルは全ての民族に共通である、C理想モデルを外国に求めることもある。価値観としては、普遍主義であり、国際主義でもある。又、社会構成の基本単位を個人に置き、家族・共同体のしがらみや、民族・国家の伝統・文化を否定する。かつてのスターリン主義ソ連・文革時代中国・現代の北朝鮮がその例になります。
 右翼は逆に@人類発祥の時点に理想社会があった、A人類はそれから堕落してきたのである、B従って、古い過去に戻らなくてはならない、C理想社会は我が民族・我が国家にこそあるのであって、他民族を模倣してはならない、と主張する。価値観としては、伝統主義・個別主義。社会の基本単位を個人より、国家・共同体に置く。日本皇道主義が右翼に属することは云うまでもありません。
 日本でこれらの思想がいつ頃、成立したかというと、概ね江戸時代中期、享保から天保にかけての頃と考えられます。

3・1)アンチテーゼとしての林派朱子学
 無論、B保守反動の成立は遙かに早く、江戸幕府成立までさかのぼれます。豊臣氏滅亡に執念を燃やした徳川家康は、徳川氏支配の世界を成立させるために、様々な工夫をします。その一つが幕藩体制の確立と、封建身分制度の固定です。これのコンサルタントとして用いられたのが、一般には南光坊天海、金地院崇伝、林羅山の3名とされます。天海・崇伝は確かにそうなんですが、羅山はそれほどの大物ではない、単に幕府の都合の良いように、文章をでっち上げただけの曲学阿世の奸物である、という説もあります。しかし、彼の主張する朱子学が、幕府儒学の正統になったのは紛れもない事実で、幕藩体制の実力並びに精神的な担い手である武士階級の多くが、朱子学に染まるのはやむを得ないことだったのです。林羅山の思想(というか役割)は次のように要約出来るでしょう。
@頼朝以来、貴族に替わって武士が政権を握ったことの正当化。天皇家がここまで没落したのは、仏教に肩入れしたためであるとして排仏論を展開。
A徳川幕府成立過程の正当化。彼自身、豊臣氏滅亡のきっかけを作った、方広寺鐘銘碑文の曲解に決定的な役割を果たしている。
B排耶蘇論の展開。後の鎖国政策の基礎。
C記紀記述の批判・否定。
 つまり、林羅山こそが、江戸幕府末端での政治体制の基本を作ったわけで、これは明治以後の官僚にも受け継がれ、さらには現代保守反動派(つまり自民党・官僚主流、かつての陸軍統制派)の思想的根拠にもなっています。ここで問題はC記紀記述の批判・否定です。まず、羅山は中国古典を絶対視し、四書五経に天地開闢以来の全てが記載されているとし、記紀の記述は中国古典に表れていないから、これを伝説・妄信として排除しました。日本天皇も崇神天皇以前は伝説であるとしてその存在を否定しました。極端な例は、天皇の先祖を、中国春秋時代の亡命者である「大泰君」に求めたことです。これ自身は当時としては、画期的な考えなのですが、筆者はこれを採らない。いずれにせよ、林派つまり日本保守反動派の思想は、日本の伝統・文化を否定・無視することから始まるのです。
 それはそうとして、この系統は、新井白石や荻生租来らに受け継がれ、幕府官僚の主軸を形成します。その基本は、幕藩体制の維持強化以外にはありません。そのためには手段を選ばない。時に左派、時に右派と手を結び、政権維持に努めます。明治維新の最大の抵抗勢力になったのが、このグループで、これの最も忠実な後継者が現在の自民党なのです。
 
3・2)左翼
 江戸時代、日本が鎖国していたからと言って、日本人が外国に対して全く盲目であった訳ではありません。それどころか、幕府は長崎を経由して入ってきた外国文献を翻訳し、出版・普及に努めました。これを読んで外国文化・文明に目覚め、日本の現状に危機感を抱き、幕府政策を批判する連中が現れます。渡辺崋山や平賀源内らがその代表。彼らは”蛮社”という結社を作ります。日本最初の左翼結社です。これは幕府の弾圧を受け解散しますが、その余韻は、吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適塾や、一部の幕府革新官僚などに残り、維新イデオロギーの一翼を担っています。

3・3)右翼
 林派の中国一遍道主義は、記紀を無視するだけではなく、古来の和歌を単なる言葉遊びにすぎないとか、源氏物語などの古典文学を、取るに足りない女・子供の物語というように貶めるものでした。これに対する反動としての日本古典文学の研究が、江戸中期に始まり、契沖・真淵と伝わって、本居宣長でほぼ完成の域に達します。日本右翼思想の原型が成立した段階です。
 宣長の思想をまとめると次の様になるでしょう。
        @記紀記述の絶対化。
        Aもののあはれ論の展開
 羅山は記紀記述を否定しましたが、宣長は逆にこれを実際にあったものとし、記紀により日本民族の起源を説明しようとしました。シュリーマンのトロヤ発掘のきっかけに匹敵する大胆な発想です。ただ彼の限界はここまでで、記紀以前の世界については後の平田篤胤の登場を待たねばなりません。では、これらが具体的にどういう意味を持つのでしょうか。
@記紀記述の絶対化
 宣長死後、ある人が弟の本居大平に質問して曰く「・・・望遠鏡で月を眺めると、白くて平坦な部分は海で、暗くてごつごつした部分は陸地の様に見える。然からば、月にもこの地球と同じような文明があるや否や」。大平答えて曰く「その様なことは記紀には述べられていない。採るに足らない質問である」。つまり、記紀の記述以外の現象は認めないのである。当然、記紀以外の古史古伝の類も認めない。その点では林派と似ています。なお、日本で250年程前に、ごく一般人が既に望遠鏡で月を観察していたということが驚異的です。
Aもののあはれ論の展開
 これはかなり難しい概念で、一般の知能が足りない右翼では殆ど理解出来ない。筆者もこれを習った高校生の頃は、全く理解出来ない、というより理解する気も無かった(理科系だったから)。宣長以前の和歌の研究は、言葉のかけ構造がどうなっているかとか、そういう表面的な技法の解釈が主流だったのです。それに対し、宣長は作者の立場に立って和歌を解釈する、そうすれば和歌を作った情景が思い浮かんでくる、と主張する。つまり、作者と読者が一体になることによって、和歌の真の意味が理解出来るということです。そこには、最早言葉が介在する余地はない。作者と読者との感性の交感が重要なのです。これを記紀解釈にあてはめるとどうなるでしょう。
 記紀は天地を創造した神々と、人間との交流の物語です。「もののあはれ論」的立場から云えば、神々と人間との霊的交感が重要になります。従って、神々の見方で、天地の理・現象を見なければならない。つまり、この世のあらゆる現象は、神の意志によるものです。そして、神の後継者が現人神である天皇ですから、人間は神=天皇の意志を体現しなければならない。「スメラミコトの大御心を、我が心となして、神ながらに暮らす」のが、神の意志なのです。そこには、神と人間との間に上下関係はなく、神と人間を隔てる権威も秩序もありません。まして、現人神を束縛するような、規制や律法などあるわけもありません。神と人間との間に秩序を設け、神を律法の下に束縛するのは、近世以後日本に入ってきた、耶蘇の考えです。
 宣長死後、日本古典研究の代表勢力の一つになったのが、平田篤胤です。彼と本居流との違いを並べて見ましょう。
@記紀以外の古史古伝まで研究範囲を広げた
 上述の様に、本居流(や他の神道各派)が記紀以外の古史古伝を認めなかったのに対し、篤胤はより古い文献(祝詞の類)に眼を向け、記紀以前の神々を発掘しています。この中には、後に伊勢神道に対する教派神道の主神になったものも含まれます。これら教派神道の特徴は、極端な国粋主義・天皇第一主義に走ること・霊的直感を重視することで、これは既製神道に対するアンチテーゼでもあり、篤胤の意志に反して維新原動力の一つになっていきます。
A死後の世界・外国宗教への関心
 本居流(や他の神道各派)は死後の人間を塵芥と見なし、格別の関心を示していません。一方、篤胤は逆に大いに興味を持ち、いわゆる臨死体験者の調査を行ったり、降霊術も行っています。大本教の出口王仁三郎も、大本教入信以前に平田流降霊術を学び、実践したとも云われます。つまり、平田神学は本居流に比べ、宗教的側面を強く持っていると云えます。また、篤胤は日本神道だけでなく、中国・インドの哲学やユダヤ・キリスト教へも関心を示しています。逆に、これが死後世界への関心に繋がったかもしれません。
B極端な国粋主義
 意外なことに、篤胤(だけでなく、当時の神道家の大部分)は地動説者です。つまり、宇宙の中心を太陽とする。これは、我が国はアマテラス大御神を主神とするのだから、当然ともいえます。只、篤胤はこれを更に拡大して、太陽は一つ、地球も一つなのだから、天地開闢の理は各国毎にあってはならず、一つでなければならないとします。これは現代ではビッグバン仮説に匹敵するような仮説です。そしてどういう訳か、この日本がその始まりであり、中心であると断定するのです。つまり、外国の天地創造神話は、全て日本がもとになっている、外国の神々も皆、日本の神々が転じたものであり(例えば、ユダヤ教のアダムとイヴは、日本のイザナギ・イザナミ神が転じたもの)、世界のあらゆる宗教・政治・法律・文字・規則・暦・度量衡等社会制度は、全て日本に起源があり、外国は日本の天皇から、それを学んだと主張します。これは、例の「竹内文書」の記述と似ているところがあります。もう一つ例を挙げておきましょう。古朝鮮のオンモンと、日本古代文字と云われる日文の類似性については、古来から云われており、日本に漢字伝来以前に文字があったという説の根拠の一つになっています。日本に古代文字があったかどうかについては、林派は全く否定します。肯定派でも、いわゆる日文は朝鮮からの伝来として、朝鮮優位説をとるのが普通です。しかし、平田派は逆に日文が起源で、オンモンはそれが朝鮮に伝わったものという立場をとります。これが当時の社会にどういうインパクトを与えたか。幕府は伝統的に中国・朝鮮が文化的に優れており、日本は後進国であり、先進国文化を受容してきたのだという立場をとります。ところが平田派では全く逆になります。幕府の立場に疑問符が加えられる基になります。
C永世革命(維新)説
 宣長も篤胤も天皇は万世一系、即ち天皇は現人神という立場をとります。神に人間のような生死の概念は当てはまりません。天皇は神の代理として、この世に降臨され賜うたのだから、その崩御は人間的な死ではなく、神の世に帰ることで「お隠れ」となる。つまり旧天皇のお隠れと、新天皇の即位は、治世を刷新するための、神の意志に基づく天皇の交替にすぎません。だから、天皇交替毎に人心を一新し、神の意志に応える必要があります。これが維新です。つまり、明治天皇には明治維新があり、昭和天皇には昭和維新が、今上天皇には平成維新が伴わなければならないのです。天皇が永久であれば、当然維新も永久に続けなければならないことになります。維新とは革命です。革命は既得権益の否定・奪取から始まります。
 林派朱子学の使命は幕府のイデオローグとして、武士=徳川幕府が天皇=貴族政治に替わって政権を握ることの正当性を理論化することでした。
@天皇家が現在の様に弱体化したのは、天皇家が中世以来、固有の神道を捨てて、外来思想である仏教に奔ったためである。
A従って、外来思想に毒されていない、武士が天皇家に替わって、政治を行うことは正当性がある。
Bそしてその根本原理は封建制度・身分秩序にあり、政治の要諦は中国聖人の教えを護ることで、そのためには儒学=朱子学が最も優れている。
 宣長・篤胤の態度も儒学は否定するものの、封建身分秩序は肯定し、むしろ現実の幕府政治を容認するものでした。彼らも又、既得権益に寄生する武士の末端に位置していたから、当然といえば当然です。
 しかし、彼らが死んだ後は話が違ってくる。既得権益に関係ない階層(主に神職・農民・町人・下級武士)は、篤胤ら国学思想をそのまま受け取ります。更にアヘン戦争での中国の敗北という政治インパクトが加わったため、幕府に対する国民の信頼感は著しく低下します。但し、これは篤胤死後数10年の話。ペリー以後の外国対応では、国民の間に外国の要求に只応えるしかない幕府は頼りにならない、もっと強力な政府をという欲求が高まってきます。それをイデオロギー的に支えたのが平田神学で、維新の大きな原動力になっています。更にこれは時代を越えて、昭和初期のいわゆる皇道思想の基になっているのです。

4、日本皇道主義からの主張
 ここでは、先に述べた宣長・篤胤に基づく日本皇道主義の立場から、建国記念日・国歌・国旗の正当性について検討します。
4・1)本居流
 この流派は、記紀に記述の無いことは認めません。日の丸・君が代は記紀に根拠がありません。だからこれを国旗・国歌と認める訳がない。又、橿原神宮での天皇即位は認めるとしても、それを国家創業とは認めないでしょう。また、天皇を束縛するような一切の規範を認めない。建国記念日・国家・国旗はいずれも、天皇の権威を束縛する規範で、しかも人間が作ったものです。人間が天皇=神を拘束するなど、あり得ないことです。
4・2)平田流
 この流派は本居流に比べれば、国家主義的です。しかし、やはり建国記念日・国歌・国旗はその存在すら認める事は出来ません。そもそも、これら3要素はいずれも自国を他国から区別するための手段です。平田神学によれば、世界の起源は日本です。日本から枝分かれした諸国が、親国である日本や兄弟である他国と区別するために、建国記念日・国歌・国旗を定めることは別に構わない。しかし、親である日本が、子であるこれら一般諸国と同じ要素を持つ必要はないのです。もし、この様なものを認めてしまったら、日本の地位は他国と同じレベルに低下し、天皇の権威も、他国の大統領やその辺りの俗物とまで没落してしまうのです。
 以上、日本国学の系統から検討した結果
@建国記念日・国歌・国旗は日本古来の伝統に基づくものではない。
Aそれはヨーロッパの左翼革命思想に起源を持ち、むしろ日本の伝統、特に天皇制を否定するものである。
B現在、これらを支持する勢力は自民党を代表とする保守体制派を中心としているが、これの起源は江戸時代の幕府体制派にある。明治以後、これにキリスト教思想が結びついた。
C従って、建国記念日・君が代・日の丸は実は、日本民族の文化・伝統を抹殺することを目的とする耶蘇・ユダヤ・フリーメーソンの陰謀である。これらを支持する輩は愛国者どころか、日本をユダヤに売り渡そうとする非国民である。
 ということになってしまいます。
           (以上)
 (注);林羅山・平田篤胤等に関する記述は吉川弘文館;人物叢書「林羅山」・「平田篤胤」・「出口なお」に依っています。


このように、日本の右・左思想はしばしば逆転します。それは何故なのか。それは明治維新の際に左右両勢力が、それぞれの矛盾を抱えたまま手を握ったからでしょう。左には阪本龍馬や横井小楠の様な開明派もおれば、右には三条・岩倉のような復古主義者・肥後勤王党のような超復古主義者がいたのです。これらの矛盾を抑えるために、新政府はヨーロッパ流の中央集権制に基づく専制政治を導入しました。しかし、この制度はそもそも日本の伝統を否定するものです。一方、天皇は日本の伝統です。互いにくっつかないものを、無理矢理くっつけたために、近代以降の日本の矛盾が始まったのです。

 では左右両翼の天敵である保守反動の起源をずーっと辿っていくと、藤原氏や物部氏、そして更に古く、記紀に出てくるヤマタノオロチ(ヤマタ族)に行き着くのではないか、と考えられるのです。神武天皇やその前の天孫族の渡来より更に古く、縄文時代からこの列島に住み着いていた先住民です。彼らは列島にやってきた支配者が誰であれ、その廻りにまとわりつき、知らない間に権力を奪取し、列島を実質的に支配してきた集団です。古来より多くの人達がヤマタ族支配を断ち切ろうと戦いました。古くは日本武尊、聖徳太子、平清盛、織田信長、近くは大久保利通、北一輝らです。彼らは全て非業の死を遂げています。これを見ても、如何にヤマタノオロチの霊力がすさまじいかが判ります。


「昭和維新の歌と平田神学」

【昭和維新の歌】】

一、泪羅の淵に波騒ぎ、巫山の雲は乱れ飛ぶ
   混濁の世に我立てば、義憤に燃えて血潮湧く
二、権門上に奢れども、国を憂える誠無し
   財閥富みを誇れども、社禝を思う心なし
三、ああ人栄え国滅ぶ、盲たる民世に踊る
   治乱興亡夢に見て、世は一局の碁なりけり
四、昭和維新の春の空、正義に結ぶ丈夫が
  胸裡百万兵足りて、散るや万だの桜花

五、古びし骸乗り越えて、雲漂揺の身はひとつ
   国を憂いて立つからは、丈夫の歌なからめや
六、天の怒りか地の声か、そのただらなぬ響きあり
   民永劫の眠りより、醒めよ日本の朝ぼらけ
七、見よ九天の雲は垂れ、四海の水は雄叫びて
   革新の機至りぬと、吹くや日本の夕嵐
八、ああうらぶれし天地の、迷いの道を人は行く
   栄華を誇る塵の世に、誰が高楼の眺めぞや
九、功名何ぞ夢の跡、消えざるものはただ誠
   人生意気に感じては、成否を誰かあげつらう
十、止めよ離騒の一悲曲、悲歌慷慨の日は去りぬ
   われらが剣今こそは、廓清の血に踊るかな


 上は、5.15から2.26事件にかけて、皇道派青年将校のイデオローグとして活躍した、三上卓作詞・作曲による「昭和維新の歌」です。戦後、多くの人が、歌っていますが(TV、ラジオでは放送禁止。カラオケでも滅多に無い)、私個人としては、やはり、鶴田浩二バージョンが一番良い。レコードやCD等で一般に歌われているのは、1番から4番までで、5番以降は余り歌われないようです。ここで両者を見比べると、前半(1番〜4番)は社会批判を基調とし、当時流行の国家社会主義思想に基づく、国家革新を主張する意図が、明白に見えますが、後半は歌詞も抽象的になり、何処か宗教的・神懸かり的になります。この神懸かり性こそが平田神学の特徴なのです。
 三上卓は、西田税や井上日召などの、右翼思想家と繋がりがあったので、彼らを通じて、平田流神懸かり思想を身につけていったのでしょう。

そして、歌詞をよく見て下さい。天皇賛美どころか、天皇の名前すら出てこない。この歌詞の云わんとするところは、人民と国家・社会との関わりを明らかにせよという事である。作詞者は、最早天皇にすら絶望していたのでしょう。そういう意味で、この歌は一般に思われている右翼軍歌などではなく、背景に左翼思想を含む革命歌なのである。


 10年ほど前、地質学会のあるニュースを読んでいると、イギリスからの留学生の自己紹介文があった。「・・・・最近イギリスへ帰ると、スコットランドでもウェールズでも分離独立運動が盛んだ。その点、そういう動きのない日本はとてもうらやましい・・・」。数100年に渉って、国旗・国歌を持っていた国ですらこうなのだ。極く最近まで、国旗も国歌も持たずに国家の独立・国民の統一を維持してきた日本は、当に世界史上の奇跡といって良い。何故そういうことが出来たかということが重要なのである。


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