民意の嘘・・・・・民主主義の落とし穴

人に好かれようと思う人は与党政治家になってはいけない(W.チャーチル)。民意で政治が出来るなら、政治家はサルでもなれる。リンカーン曰く、人間は40を越えると、自分の顔に責任を持たねばならない。


 昨日BSフジプライムニュース。テーマはトランプ外交・安保政策。ゲストスピーカーは自民副総裁の高村と、元外務省の岡本行夫。岡本の意見は、トランプ外交の行方は、国際緊張を招き、その影響は日本にも及ぶというもの。それに対し高村は、「将来は分からない分からない」と言いつつも、トランプもいずれ、常識的な線に落ち着くだろうと、トランプ贔屓ではないにせよ、楽観的見方。筆者自身は岡本の見方の方がより現実的で、高村はいささか甘いのではないかと思う。これが与党・官邸のコンセンサスとすれば、いささか危機感に欠けると言わざるを得ない。おりしも当日朝、トランプはトヨタ車への課税検討をツイット。高村発言はいささかタイミングを失したようだ。
 このような保護主義的経済政策・・・それも個別企業を狙った恣意的政策・・・は、一時的効果をもたらしても長続きなどとは、まともな人間なら誰も思っていない。第一メキシコとアメリカとでは、平均賃金で5倍の差があるのだから、高額関税を払ってもメキシコで生産した方が得だ、という考えもあるし、顧客はアメリカだけじゃない、メキシコで作ってカナダやヨーロッパに輸出してもよい、という考え方もある。要するにお客はアメリカだけではない、それがグローバリズムなのである。
 ところがトランプは、お客はアメリカだけ(アメリカファースト)だ、お前たちはアメリカの下請けだから、客の云うことを聴けというだけで、下請けへの利益還元の話はしない。これでは下請けもやっていけない。また、アメリカへの工場移転は当然コストアップに繋がるから、下請け会社も採算が取れなくなる。そうすると株主は逃げ出したり、へたすると訴訟騒ぎになりかねない。無論今のところ、トランプ経済浮揚策で株価はあがっているが、これはただの期待値、実態を反映したものではない。但しこの化けの皮が剥がれるのは、早ければ半年後の企業決算期、つまり今年の秋。遅ければ三年後ぐらいか?保護主義政策が潰れると、一般には悪性インフレに見舞われる。アメリカのような大国なら、大恐慌になりまねない。この災厄の処理を誤れば、第三次世界戦争だ。
 今のところ、これまでのフォード、GMのメキシコ進出に加え、今回のトヨタへの脅し・・・その中には事実誤認もあるが、あの男はそんなもの眼中にない・・・に共通するのは、メキシコへの激しい憎しみである。何故彼がこんなにメキシコを憎むのか、その理由はよく分からないが、日本人の中の一部にある、嫌韓・反中意識と共通するものがあるのかもしれない。
 アメリカとメキシコとの関係がズーット良くなかったのは事実である。特にテキサス・アリゾナ・ニューメキシコは元々メキシコ領だったのを、アメリカが武力に奪い取ったのだから。また、19世紀末のメキシコ独立戦争、その先のメキシコ革命では、アメリカからコロラド旅団のようなゴロツキ・・・ロナルド・レーガン主演のB級ハリウッド映画では、しばしばこういうのを英雄扱いする・・・が現れて、乱暴狼藉の限りを尽くしている。
 しかしトランプがこのような歴史的背景を理解しているとは思えない。また、この憎悪がメキシコから、他に拡散する可能性だってある。その対象は当面はヨーロッパだが、日本は例外という保障はない。
(17/01/07)


 大阪府の25年万博招致委員会最高顧問に、堀江貴文が就任することになった。橋したは確かその前に同じ地位についているはずである。これに村上世彰が加われば、平成マネー三悪勢ぞろいだ。これに松井を加えると、ガラクタ四悪になる。
 さて、この四人の共通点は何でしょうか?それは反知性主義*ということです。マネーと力を最大限に信じるという点ではトランプとも共通します。
 一方対するパリは、中世以来ヨーロッパの、近代以降は世界の知性の総本山。25年万博招致は、反知性主義vs知性主義の対決になりそうです。さて、万国博は19世紀に始まり、近代世界の文明のシンボルでした。それをリードしたのはヨーロッパ知性主義。近代オリンピックも19世紀の知性主義から始まったもの。ところがそれでは行き詰ってしまって、84年ロス大会から商業主義=反知性主義が前面に出てきた。今度の20年東京大会も世間(日本ではなく世界)では、金で買ったようなものだ、と揶揄されています。
 ということは、25年万博も、意外と大阪が勝つかもしれないのです。ただしそれまでトランプ主義が生きていればお話です。
*反知性主義については別項に移動します。
(16/12/24)

 反知性主義というのは、読んで字の通り、知性に歯向かいそれを否定する思想です。知性とは人類(ホモサピエンス)が2〜30万年前アフリカのサヴァンナを出て中東に定着し、更に年月を重ねて世界に散る過程で習得した、これまでの経験と知恵の集大成です。
 人間の脳内から分泌されるホルモンには、アドレナリン、ドーパミン、ソレトニン、オキシトシンの4種があるとされます。これらの内最も原始的なものがアドレナリンで、これは防御本能を司り、仲間や集団の結束を促します。これが本能と呼ばれるものになります。
 アドレナリンの分泌が過剰になると、逆に攻撃的になる。重症覚醒剤中毒患者が無差別殺人を犯すことがよくありますが、これは覚醒剤によって脳内ホルモン分泌バランスが崩れ、アドレナリン過剰状態になった結果です。アドレナリンがある集団・民族に共通するようになると、ユングの云う「集合無意識」という民族的本能が形成される。集合無意識が過剰になると集団・民族間の争いから戦争に発展します。これをほおっておくと、民族の絶滅に繋がりかねない。これを防ぐためには、集合無意識の拡大・・・アドレナリン過剰分泌・・・を防ぐしかない。
 アドレナリン抑制物質がソレトニンで、これを基に編み出されたのが、宗教・哲学・法律といった知性です。又ドーパミンから文学・芸術という文化、科学・技術といった文明、更にオキシトシンから友愛と云った人間の特性も生まれてきた。
 反知性主義とは、これら人間の特性を全否定し、原始的本能つまり集合無意識の発現・拡大を促進する思想又は運動です。こういう運動はヨーロッパでは何度も繰り返し発生した。ニーチェの有名な「神は死んだ」*という言葉もこの一つと思えばよく分かる。
 現代における最大の反知性主義運動は、いうまでもなくドイツにおけるナチズムです。これはドイツ=ゲルマン民族の原始的集合無意識に火をつけ、第二次世界大戦という災厄を招いた。ナチズム崩壊までの反知性主義運動が武器にしたのは、力と伝統です。ところが前大戦でこれらによる世界制覇は無理だと分かった。そして今彼らが手にしようとしているのが、一つは数の力、そしてマネー(お金)です。
*これは資本主義に対するアンチテーゼ
(16/12/24)

 フランス野党統一候補予備選挙は中道右派のフィヨンが圧勝した。フランス中道右派(ドゴール派)というのは、日本でいうと、かつての自民党主流派、アメリカの共和党主流派に相当する。ところが時代は変わり、両方とも極右勢力に乗っ取られつつある。
 日本自民党国会議員の2/3は、今や極右の日本会議やその影響下にある。アメリカ共和党も、トランプ支持者を無視できなくなり、あわや分裂の危機にある。
 フランスはぎりぎりの線で極右を抑え込んだところだが、予断は許さない。それはトランプのイスラム敵視政策が、ヨーロッパでのテロをますます増大させ、右派・・・つまり民族主義、内国主義、孤立主義勢力・・・を増強するからである。
(16/11/29)

 昨日は自民保守、特に右翼の巣窟「日本会議」にとってショックな出来事が二つありました。一つは沖縄県議選で翁長与党が勝利したこと。もう一つは川崎でのヘイトスピーチデモが反対派の圧力で解散に追い込まれたことです。
 沖縄知事選については年初来、辺野古埋め立て工事の維持延期とか、沖縄振興策とか、オバマの広島招待とか、いろいろ下手な”カブキ”をやっていたが、沖縄女性殺害事件がありおまけに投票前日に海兵隊員の酔っ払い運転事故のような共演者のチョンボが続いて何にもならなかった。
 川崎ヘイト行進事件では、結局ヘイト側は解散してしまった。昨今の世界全体の保守化傾向は、どの国でも民族主義・愛国主義を煽る。ヘイト側はこの潮流に載って勢力を伸ばしてきたが、思わぬところで躓いてしまった。
 一般にある勢力(これは宗教でも団体でも生物種でもなんでもよい)が成長を始めるときは、最初は極く小勢力で目立たないのだが、時間が経って外部環境が変化して、それに適応してくると、突然大勢力に拡大することがある。ところがそれがアクメに達すると、今度は逆にあっという間に絶滅してしまう。日本の歴史では平家や織田信長、豊臣政権などがこの例に当てはまる。
 古生物学的にもこういう現象はいくつも認められる。例えば古生代後期二畳紀に繁栄した紡錘虫という虫は、原生種は石炭紀中期に始まるが、殆どいるかどうか判らないような小さな虫だった。それが二畳紀に入ると急速に勢力を伸ばし、後期にはテチス海は紡錘虫の海といって良いぐらい繁殖した。個体の大きさも、元は顕微鏡で見なければ判らないぐらい小さかったのが、絶滅種では5円玉ぐらいになってしまった。それがあっという間に絶滅してしまった。その理由はいまだに謎である(P-T問題)。
 ということで、今を時めく保守民族派(これは「日本会議」だけではなく、アメリカのトランプ派やヨーロッパのネオナチ等)も、いずれ間もなく絶滅するでしょう。何故か?それは地球が丸いからです。丸いということは表面積に限度があるということ。従ってそこに蓄えられている資源にも、限度があるということです。つまりそんなにいくつもの孤立主義を支えられるほど、地球は大きくないのだ。この原理を理解しない、つまり地平線は無限に広がっていると錯覚している人間が結構多いのだ。
(16/06/06)

 明治38年9月、首都東京はかつてない緊張に包まれた。日露戦争終結に伴うポーツマス講和条約に反発する民衆が、大挙して交番を焼き討ちするなど騒乱状態を起こした。所謂日比谷焼き討ち事件である。日露戦争で日本は戦争に勝ったが、外交的には負けたと言って良い。樺太全島をと思っていたが半分に値切られ、満州の権益も遼東半島と満鉄線沿線に限られた。これでは満州の原野に散った10万の英霊は浮かばれない、と心ある民衆が立ち上がったのである。これが当時の「民意」だった。これを背後で煽ったのがマスコミ。ところが政府・軍部は民意を無視して、軍隊・警察を動員して「民意」を弾圧した。もし当時の政府が「民意」に同調して講和条約を拒否したらどうなるか?アメリカは調停の座から降りるから戦争は再開する。その内ロシアの逆襲もあるだろう。そうなれば僅かな権益どころか、満州に残った日本軍が壊滅する可能性もあったのである。
 明治の政府・軍は民意を無視した。しかし昭和の政府・軍は反対に「民意」を考慮し過ぎたと言うと、例えば大江健三郎のような・・・ノーベル賞しか取れない・・・不勉強な劣等生は、戦前・戦中の日本を軍部独裁体制で、国民は自分の意志を示すことが出来なかったと主張するが、本当でしょうか?確かに戦争反対で弾圧された人も居たが、それは一部の左翼系か反東条派人脈で、大部分の国民は戦争に協力していたのである。そしてそれを煽ったのもやはりマスコミ。昭和15年2月衆議院(第一次米内内閣)で斉藤隆夫が有名な「反軍演説」を行ったが、その主旨は大陸からの全面撤兵を試行する軍に対し「領地の一片も奪わず、償金の一つも得ないで撤兵するとは、これまで犠牲になった英霊に対し何と申し開きをするのか」と言うものだった。これが民意となり、この民意に押されて政府・軍は撤兵の機会を失い、戦争拡大の道を進まざるを得なくなったのである。昭和の政府・軍は明治のそれと違って、民意に対し大変気をつかっていたのだ。そしてこれは何も日本だけのことではない。
 目をヨーロッパに転じて見よう。1938年9月ドイツはチェコに対し、ズデーデンラントの割譲を要求した。チェコは当然反発するが、ドイツの圧倒的な軍事力には対抗すべくもない。そこで英仏に仲介を要請するが、両方の国民の多くは、戦争の再来を恐れチェコへの過剰介入に反対した。これが民意となり、民意を背景にした英首相チェンバレンは、ドイツの要求に屈する形で、ズデーデンの割譲に同意した。これがミュンヘン会談である。これに反対した政治家はイギリスのチャーチル一人。彼は当時の民意からは、浮いた存在だったのである。しかし、これに味を占めたヒトラーは、今度はポーランドにダンチヒ回廊の割譲を要求した。これに対しポーランドは断固拒否。遂に第二次世界大戦が始まった。これは政治が民意に従って失敗した典型例である。しかし、仮に民意を無視しても戦争になったのではないか、という見方もある。ではミュンヘンの時に英仏が民意を無視し、ドイツに軍事的圧力を加えたとしたらどうなっていたか?必ずしも戦争にはならず、逆にドイツ国防軍による反ナチクーデターの可能性もあったのである(ニュルンベルグにおけるハルダー*の証言;W.L.シャイラー「第三帝国の興亡」)。それをぶち壊したのが、英仏の「民意」だったのだ。チェンバレンは単にその生け贄になっただけだ。
 このように民意と言うモノは甚だ捉えにくく、又近視眼的で今のままを要求し、しばしば歴史の方向性をねじ曲げたり、後戻りさせるのである。政治家にとって必要な行動・資質は民意におもねることではなく、民意を正しい方向に導くことである。しかし、正しい方向とは何かは、お釈迦様やキリストでもない普通の人間には判らない。上に挙げた例から云えるのは、一つののコツは民意の反対をやることである。なかなK勇気のいることですが、これが出来れば歴史に名を残せる。
*フランツ ハルダー;元ドイツ国防軍陸軍参謀総長、上級大将。1937年ベックのあとをついで参謀総長に就任。ポーランド戦からバルバロッサ作戦までのドイツ陸軍作戦を主導。バルバロッサの失敗で解任。1944年反ヒトラー陰謀に加担。45年逮捕投獄されるが、処刑直前に脱出に成功。伝統的な歩兵中心主義者で、革新的機甲中心主義者のグデリアンやマンシュタインらとはそりが合わなかった。ロンメルが、主戦場の対ソ戦ではなく支作戦であるアフリカに追っ払われたのも、ハルダーに嫌われたため、という説もある。
(12/09/05)

81日西部論文。マニフェストデマ政治批判。しかし、よく考えると、ここ10年、日本国民はこの種のデマに曝され、なおかつデマを信じ、自らデマにヨイショしてきたのである。まず、コイズミカイカクというデマ、次ぎに政権交替というデマ、そして今は維新・脱原発再生エネルギー・国民生活第一というデマ。つまり、この国民は、過去にデマに騙されたにも拘わらず、相変わらずデマを追い求めている、と言えるのである。

 このようなデマは今の時代の特色か?いや戦前にもあった。一つは満州国というデマ、一つは昭和維新・国家革新というデマ、もう一つは八紘一宇・東亜解放というデマ。これらのデマの連続で、日本人はとうとう国を滅ぼした。と言うことは、冒頭に挙げたデマの連続により、今の日本人もやがて国を滅ぼす運命にあると考えられる。これはゆゆしきことである。そしてそれを煽るのが、今も昔もマスコミジャーナリズムなのである。

 では、このようなデマ時代は日本の歴史で普遍的か、というとそうでもない。明治維新から日露戦争、戦後から高度成長期にかけては、デマの少ない・・・デマが発生しにくい時代だった。ところがあることがきっかけで、日本人はいきなりデマに弱くなるのである。戦前は鈴木商店の倒産に始まるバブル崩壊。今度も日銀三重野の勘違いというか、妄想によるバブル崩壊。戦前と現代デマ環境を比べると、1)永続くデフレ、2)既成政党の無能・無策、これらが相まって作られた3)出口の見えない閉塞感が共通している。事態打開策として戦前、国民は既存政党でなく軍部に期待を寄せたのだが、これが口先と違って、やらせてみるとまるっきり無能。今の民主党みたいなものだ。今反民主勢力と称する烏合の衆も似たようなもので、政権を獲っても同じ轍を踏むだろう。それでもこの国民は、デマが振りまく、見かけ倒しの甘い夢にすがり続けるだろう。

 その前の雨宮ナントカという女の意見。脱原発デモのバカ騒ぎにココロを奪われ、直接民主主義の胎動が聞こえるなどと、訳の判らぬ妄言。この女、懐が貧困だけでなく頭の中も貧困らしい。どうも一般の日本人は、直接民主主義が理想的政治形態と錯覚しているようだ。これは中高校の誤った社会・歴史教育の所為と考えられる。過去、世界で直接民主主義が行われたのはアテネだけ。北方ユーラシアの遊牧騎馬民族から、アメリカ先住民も大部族集団は皆代議制である。しかもアテネはギリシアの中の一都市国家に過ぎない。スイスが直接民主主義国家と錯覚している人間も多いだろうが、実際は一部の州だけ。どちらも人口は、今の日本では地方の一中堅都市レベルだ。いわば完全同質社会。そんな社会で行われたシステムを、多様性を前提とする現代民主主義社会に適用出来るわけがない。しかも、直接民主制と言っても、だれでも参加出来るわけではない。極めて限定された階層にのみ適用されたシステムなのである。それに参加出来るのは、アテネでは一定の資産を有する自由民男性だけで、女性・子供・奴隷は適用外。今のスイス某州でも、有権者は税金を払っている男性だけ。今の日本で云えば、せいぜい所得税・住民税を払っている本人だけ、ということになる。つまり、税金を払っていない貧困村住民とか、公的年金をはらっていない芸人・タレントは、直接民主制適用外なのである。そういう直接民主制なら、私も大賛成だ。

 70年安保と直接民主制と絡めるアホもいる。あの当時、大学でも卒論や何やらで、民主的研究を試行したケースがあることは知っている。かくいう筆者も、昔ある業務で民主的なやり方を試行したことがあるが、結局は一回きりで止めた。何故なら、民主的やり方に参加する人間は、最期まで責任を持たないのである。都合が良いときはあれやこれやと騒ぐが、悪くなると途端に逃げ出すのが多い。結局は誰かの負担が増すだけ。それだけではなく、そういうやり方では人が育たない。企業は人なり、国家も人なり、だ。代議制民主主義はともかく、直接民主主義は人の育成を阻害するのである。

 直接民主主義の末路は、概ね次の3パターンに分けられる。

1)議論が分散して結論が得られず、いつの間にか雲散霧消      ・・・・・ベ平連型

2)内部がセクト化し、権力抗争・内ゲバの連続。その内世間から見放される・・・・・全共闘、三派全学連型

3)内部に強力なアジテーターが現れ、彼が権力を掌握し独裁体制を敷く・・・・・アテネの潜主制、松崎動労型、今の橋した維新もこのタイプ  

 つまり直接民主制というのも、一部の歴史学者や法学者がでっち上げたデマなのである。

(12/08/05)

【恥ずべき民意】
 先日某刑事裁判(裁判員裁判)で有罪判決が下された。被告はアスペルガー症候群で、これは裁判官も認めている。しかし、下った判決は驚くべきものだった。判決は被告が同症候群であることを認めたが、同症候群は完治する見込みはなく、出所後も再犯をおかす可能性が高く、出来るだけ長期間刑務所の拘置する事が望ましいとして、求刑を上回る懲役20年を言い渡した。 弁護側は即時控訴を決定。上級審では原判決は棄却・再審になるだろう。
 筆者が問題にするのは、本裁判は裁判員裁判であるから、この判決並びに判決理由は、”民意”を反映したものと解される、という点である。ずばり云えば、この裁判は人民裁判に他ならない。日本の裁判に人民裁判論が忍び寄っているのである。
 そこで問題になるのは、”民意”とは何か、である。民意とは、やり方によっては、その国民の民度・恥を国際的にまき散らすタネになりかねない、と言う点に注意。
(12/08/04)


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