靖国問題いろいろ


 さていよいよ”敗戦記念日”がやってきました(筆者は終戦記念日などという誤魔化し用語は使いません)。毎年この時期に話題になるのが”靖国神社”問題、なかんずくA級戦犯合祀問題。靖国神道が日本の神社神道の伝統の中では、異端の存在ということは既に述べてあります。問題の発端は1978年、当時の宮司松平永芳がA級戦犯14名を合祀したことに始まる。火種はその10年以上前からあって、氏子総代会でも合祀派と反対派に分かれて対立していたが、新任の松平宮司が強引に押し切ったらしい。
 反対派はA級戦犯の死は東京裁判以後のことで既に戦争は終了しており、戦死ではない。従って靖国神社合祀の基準に当てはまらない、というもの。これに対し合祀派の主張は45年終戦は偽の終戦で、真の終戦は55年サンフランシスコ講和会議である、それまでは戦争は続いていたので、A級戦犯も戦病死に当たるというものである。
 先日のプライムニュースに出演した自民党稲田朋美政調会長も似たようなことを云っていた。又、今年5月アベ晋三はいきなり同会議記念式典をやりだした。これには彼の頭にも、松平宮司と同じ考えがあるということに他ならない。
 さて、国際法上講和まで戦争状態は続くというのは定説らしい。ではこの定説で一番得をするのは誰でしょう?それは戦勝国です。既に敗戦国は降伏しているから何も出来ない。一方戦勝国はやりたい放題だ。何故なら未だ戦争状態が続いているからだ。ナポレオンが降伏した後ウイーン会議まで、フランスはドイツ・オーストリア等ヨーロッパ各国軍に占領されていた。ドイツ人相手のフランス人慰安婦も大勢出ただろう。これも戦争継続の結果。映画「西部戦線異常なし」ラストシーンで、主人公のドイツ兵が休戦協定成立を聞いて、蝶々を捕まえようと塹壕から身を乗り出したとき、フランスの狙撃兵に頭をうちぬかれるという不条理も、この国際法上の定説が産んだ結果なのである。
 この国際法上の定説を活用したのは、松平宮司だけでなくもう一人いた。それはソ連のスターリンです。彼は降伏と講和との時間差を利用して、ヨーロッパではドイツ降伏後、ドイツ東部からバルカン地方の大部分を占領してしまった。また極東でも非戦闘地域である満州・朝鮮・千島・樺太を占領し、既成事実をつくってしまった。いずれも上に挙げた「国際法上の定説」という欠陥利用したのである。
 もし松平や稲田説を受け入れるのなら、日本はソ連の火事場泥棒を国際法上合理的と受け止めざるを得ない。これと言うのも、松平という頭のおかしいジジイの、自分勝手で愚かな行為が原因なのである。昭和天皇が怒るのは当たり前だ。この松永こそが戦後日本の講和条件を破壊したのである。これこそ君側の奸だ。もし日本が本気で北方領土返還を求めるなら、靖国神社からA級戦犯を追放すべきである。
 とにかくこの件で感じるのは、松平だけでなく日本の保守・右翼の視野・料簡の狭さである。自分の足元しか見ていない。つまりつまずくことが怖くて仕方が無いのだろう。
(15/08/14)

【靖国ブラック神社】

 8月15日と云えば靖国神社。しかし日本人でも、この神社が日本神社神道の伝統に反した異端宗派であることを知らない人が多い。特に保守派・右翼と云われる一派が酷い。何故異端か?1)天皇・国家のために死んだ武人の魂を祀る。2)神となった武人の魂を現世の軍部が管理する。即ち、武が神の上位にある。
 以上2点が異端の証拠である。そもそも日本の神社は縄文起源の自然・祖霊神を祀るものは別として、飛鳥・天平期以降、即ち天皇制国家成立後に建立された神社は、国家・天皇に仇なす怨霊鎮め、或いは将来国家の脅威となりそうな外来神の宥撫を目的としている。仲哀天皇は住吉神の神託を疑ったばかりに、三日間苦しんで死んだ。その後、皇后のタラシヒメによって建てられたのが、摂津住吉大社である。下関赤間神社は平家の怨霊鎮めの社である。神戸湊川神社は、楠木正成の忠義を讃えて建てられたものではない。元々、正成公の怨霊鎮めの社だったのを、水戸光圀が勘違いしただけである。太平記には、正成公が自分を自刃に追い込んだ大森彦七の元に、怨霊となって現れた話しがある。
 天平〜奈良期には、八幡神、稲荷の神、牛頭天王といった強力な渡来神がやってきた。これら外来神を怒らせるととんでもないことになる。そこでこれらを宥めるために作られたのが、八幡社であり、稲荷社であり、祇園社だったのである。戦後マッカーサーが日本統治の神として、関東厚木に降臨した。当に神の降臨である。実際、筆者が子供の時、親に怒られる時に使われる言葉が「マッカーサー呼ぼうか!」とか「MP連れて来るで」だったのである。マッカーサーやMPは、恐ろしい外来神だったのである。マッカーサーが解任されて、帰国するとき、日本のマスコミはマッカーサー讃辞一色、「元帥様帰らないでね」てな話しが幾らでも残っている。これでは日本人の誇りも何もないだろう。
 2)に至っては言語同断。神を侮辱するにも程がある。今の靖国神社は、宮司が元電通セールスマンだけあって、あまりにも商業主義に堕している。これにおもねるのが自民党の金儲け主義とアベの身内主義。アベの仲間にブラックワタミがいる。靖国も最早ブラック神社になったのか?死んでからもお国のために働け、というわけだ。直ちに靖国神社は廃止し、別の追悼施設に英霊を移し、自民・靖国商業主義から解放しよう。
(13/08/15)

平田神学と日本右翼

 右翼、或いは右翼的行動は洋の東西を問わず、又何時の時代にも存在する。この原動力は、一般には偏狭な民族主義、人種差別主義、国粋主義が挙げられる。ヨーロッパの場合、これに下層階級の貧困や失業問題が絡んでくる。だから比較的判りやすい。対等の立場で、状況改善への議論が可能なのである。ところが、日本の場合、右翼活動を支持したり実行したりしている階層は、必ずしも失業問題を抱えているわけではない。歴史的に見ても、どちらかというと、経済的に余裕のある階層が右翼活動にのめり込む傾向がある。何故そうなるかという理由に、日本の右翼思想が、独特の宗教性を持っていることが挙げられる。宗教がバックにあれば、近代市民社会から拒否反応を受けるのはやむを得ない。一方、ヨーロッパの右翼思想・・・これの代表がナチズムだが・・・は、そもそも無神論に立つ。何故なら彼らにとって、カソリック教会こそが、憎むべき保守体制の根元だからだ。だから、日本の右翼とヨーロッパの右翼が、一致して連帯することはないだろう。日本右翼の宗教性の元を造ったのが平田派国学(平田神学)である。これがある限り、日本の右翼思想は国際的にも認知されないし、一般市民からも受け入れられることはない。日本右翼の最大の課題は、平田神学の克服である。なお現在日本社会で流行っているネトウヨ、テレウヨの類、或いは保守政党の走狗となって、一見右翼的論調を喚く保守系マスコミや評論家などは、右翼の風上にも置けぬ無思想・無節操俗物芸人である。

1、暴力と右翼、平田流国学
 
 40年ほど前、街でうるさかったのは左翼のアジ演説だった。今うるさいのは右翼の街宣である。あれは右翼が左翼の真似をしたのだろうか。かつての左翼のイメージは、ヘルメットにタオルの覆面、ジャンパーにGパン、ゲバ棒に赤旗とアジビラだった。今の右翼は黒の戦闘服にサングラス。ドスを効かせたアジ演説と、騒音防止条例違反ギリギリの軍歌の咆吼である。どう見ても今の右翼にぴったりなのは、暴力団のイメージである。今多くの市民は、右翼=暴力団という先入観を持っているだろう。実際、暴力団が政治結社(右翼団体)を騙っているケースも少なくない。しかし、そもそも右翼と暴力団とは何の関係もない。ある時期(70年代の組織暴力対策法施行以後)から、シノギを無くした暴力団が右翼世界に入り込みだした。それを右翼が阻止もせず、ほったらかしにしたために、自分達の世界を暴力団に蚕食され、気が付いたら自分も暴力団呼ばわりされるようになったのである。
 現在の暴力団に似たものに、幕末から明治・昭和にかけて活動していた「博徒(ヤクザ)」集団が挙げられる。その組織形態や集団内習俗から、これらは同一と思われやすいが、実態は殆ど別個のものになってしまっている。しかし全く関係が無い訳ではないのと、形態が似ているのでこれらを一連のものと考えよう。博徒が発生したのは何時の時期か、明確ではないが、その活動が人口に膾炙されるのは江戸時代後期、天保以降のことである。博徒が何らかの政治的意図で行動したと考えられるケースとして、次の2例を挙げよう。幕末、甲斐の黒駒勝蔵は倒幕派に潜り込み、官軍の将校にまでなった。一方、対立する清水次郎長は幕軍に肩入れした、と云われる。しかし、これらは双方の政治思想を背景にしたと云うより、黒駒は官軍と結託して利権を得ようとしたのだろうし、次郎長は黒駒に対する反感と、渡世の義理で官軍に楯突いただけだろう。もう一つ、国定忠治の赤城山籠もりと、上総での勢力富五郎(忠治処刑の前年、忠治の子分神崎友五郎の、その又子分の勢力富五郎が子分20数人と共に上総で武装蜂起し、幕府取り方の包囲の中、鉄砲で自決した)事件がある。これなどは右翼活動どころか、殆ど左翼パルチザンである。しかも、これらは全くの例外である。そもそも、博徒は権力に寄生し、非合法手段により利益を獲得し、それを再生産する集団である。そこに政治性・思想性が入り込む余地はない。つまり、博徒は本質的にリアリストであり、政治的にノンポリなのである。ところがこれがアンチリアリズムの典型である右翼と結ぶ。そこには右翼世界に、暴力を容認する思想的・精神的土壌があったことを無視してはならない。ではその土壌とは何であろうか?それが本論の中心テーマである「平田流国学(平田神学)」である。

 「平田流国学(平田神学」の概要は別項で紹介してある。平田流国学の特徴として、次の4点が挙げられる。
   1)記紀以前の古史古伝の取り込み
   2)死後世界への関心、降霊術の実践
   3)極端な国粋主義、天皇中心主義(逆転の論理)
   4)永世革命説

 ここで興味を惹かれるのは2)降霊術の実践である。伝統神道では古来より巫術(朴占術)が行われていた。これも一種の降霊術である。つまり、ある儀式を通して、現世の人間と霊界のカミとが交流し、情報を交換するのである。古事記に、仲哀天皇九州征伐の折り、天皇を術者、オキナガタラシヒメノミコト(神宮皇后)をヨリシロ、武内宿禰を判者として降霊術(神託を得る)を行った、という記述がある。これから見て、天皇とはそもそも古代では霊能者で、更にそれを人民から求められていたのではなかったか、という推測が成り立つ(これにより、大阪府下古代天皇陵と活断層との密接な関係を説明出来る)、と筆者は考えている。古代(未開)社会では、生と死との境界は甚だ曖昧であった。縄文・弥生期の遺跡では住居の直ぐ側に墓地があったり、住居内に死者が埋葬されたりする。古代エジプトのミイラや、最近まで東南アジアで行われていた、死者と生者の同居などは、死者の復活・蘇生が現実のものと思われていた証拠と考えられる。つまり、古代社会では、生者と死者(神)との霊的交感、つまり降霊術が日常的に行われていたと考えられる。これが伝統神道に於ける巫術である。しかし、その後起こった儒教・仏教・キリスト教・イスラームなどの論理宗教は、何れも生と死を峻別し、死者の復活などを迷信として否定した。儒教・仏教を国家・民衆統治の基本テーゼとした徳川幕府が、このような巫術(降霊術)を公に認める訳がない。林大学頭は、徹底的に記紀批判を行ったが、それに対し神道家は全く反論出来ず、幕府の軍門に下った。この結果、巫術(降霊術)は単なる迷信と見なされ、民衆から疎外され、祭祀儀礼の一種に落ちぶれてしまった。これを復活させたのが、平田篤胤(1776〜1843)だった。彼は日本で始めて臨死体験者の調査を行っているが、これは降霊術の実在を証明することが目的だったとも考えられる。
 さて、降霊術は、生者(現世)と死者(霊界)との間を、自由に行き来すること(情報の自由交換)を実現する。祝詞はこの時に使われる呪文であって、降霊を実現するスウイッチの役割を果たす。篤胤は死文化されてきた古代の祝詞を研究発掘する。降霊が実現された時、生と死は相対化され、生死の境は極めて曖昧になる。これに天皇絶対主義が加わればどうなるだろう。人民は天皇(神)に対する絶対的奉仕を求められるから、天皇(神)に関連する人民の死は、極めて軽く扱われることになる。当に「身を鴻毛の軽きに置き」という世界が実現する。逆に天皇(神)に反抗するものに対しては、簡単にその命を奪って良い、という思想が産まれる基になる。これらは最早合理的批判の域を脱した、テロの思想である。更にこれを敷衍すると、極端な神国思想、精神主義、独特の死生観、即ち靖国の思想、特攻の思想に繋がる。つまり、理性・言論というまだるっこしい手法は省略して身体で直接結論を出す、という単純問題解決法(暴力容認主義)に結びつく。無論、これは常に起こる訳ではない。民族・集団の集合的無意識に対する外圧(ストレス)が一定限度を越えると、突然発生するのである(真空管の中の陽極と陰極に電圧をかけると、電子の流れが出来るようなものだ)。この辺りの解釈は、ユング心理学の助けを借りなくてはならない。三島由紀夫事件も、この点を抜きにしては理解されない。又、この問題解決法は、博徒の生き方に共鳴する部分があり、逆に平田派右翼にも博徒の単純な生き方が受け入れられることになる。それが尾を引いて今のような右翼=暴力団という構図になったのだろう。
 上記4点以外に、これは平田派に限らず、神道全般に通じるだろうが、極端な権威主義がある。要するに上位階層の云うことには、下位階層は絶対服従という論理である。これは親分がシロと言えば、黒もシロになる博徒の論理に通じる。もっともこれは、博徒・右翼だけでなく、役人・大学・政治の世界に共通だが。
 なお、大正期、海外からの左翼思想の流入により、労働組合が結成され、各地で労働紛争が発生した。これを鎮圧するために企業側は与太者・ゴロツキ・愚連隊を雇ってスト破りを行った。これなど当に右翼的単純問題解決法である。これが、戦後三池争議や60年安保闘争で繰り返されるのである。

2、平田派国学と明治維新
 平田篤胤と言えば、行動派右翼の教祖みたいなものであり、理論右翼でも無視出来ない存在だろう。かといって、彼が右翼政治団体を作って幕府に反抗した訳ではなく(そんなことをすれば、たちまち幕府の弾圧を受けて打ち首獄門だ)、学者や宗教家として世論を指導したわけでもない。活躍したのは、文化文政期。そろそろ日本の周辺に外国船が出没し始め、国内に外国脅威論が出だす頃である。家業は秋田藩の医者で、幼くして国学を学び、長じて藩命を得て江戸に出、一門をなした。強烈な尊皇思想がその特徴だが、幕藩体制や封建制を肯定し、幕府から弾圧・迫害も受けていない。当時の国学の主流は本居流で、本居派に潜り込もうしたが拒否されて失敗。更に水戸藩に就職運動するが、これも拒絶されて失敗。その後故郷の秋田に帰り、失意の内に没す。世間的には、少し変わった学者なのであまり近づかない方が安全、ぐらいに思われていたのだろう。
 その平田流国学が復活し、世間の注目を浴びるのは、死後10数年後。以降は学問よりは政治の話しになるので、「平田派国学」と呼ぶ。その間、アヘン戦争(1840)で、鎖国連帯を結んでいた清国があっさりイギリスに降参、開国してしまった。その後も日本近海への外国船の到来と通商要求は繰り返され、とうとう1854年ペリー来航により幕府は開国を決定し、京都の朝廷にその承認を求める。しかし朝廷はこれを拒否し、攘夷断行を要求した。これに対し、幕府は攘夷派に対する徹底弾圧で臨んだ。ところが、これが反発を呼び、攘夷・倒幕運動が展開されることになる。未曾有の混乱、テロの時代の到来である。
 この時、平田派国学は次の二つの流れに大きな影響を与えた。
     1)公卿・貴族階層による王制復古運動
     2)「草もうの志士」による尊皇倒幕運動
1)公卿・貴族階層による王制復古運動
 頼朝の鎌倉開幕以来、奪われていた政権を朝廷に回復するのが、公卿・貴族階層の永年の念願だった。開国は幕府権威失墜の象徴(今で云えば内閣支持率が20%を切ったような状態)であり、王制復古派にとって、こんなチャンスはない。この時に朝廷に食い込んだのが平田流国学。先に述べたとおり、平田篤胤自身は幕藩体制を支持していた。しかし、その後継者がその部分を隠し、尊皇理論だけを朝廷に売り込んだのだろう。一方、朝廷側も幕府を倒したいものの、なにせ幕府は200数10年に渉って無事に国家経営をやってきた。単なる感情論だけで倒幕を広言すれば、返って大名・庶民の反感を買いかねない。幕府に変わって朝廷が政権を引き受ける大義名分が必要である。平田流国学はその点を補完するに、実に好都合だったのである。平田派にとっても、朝廷が平田流国学を採用すれば、本居流や水戸派どころか、儒教・仏教をも乗り越え、国家を指導する学派にのし上がれるチャンスになる。大いに売り込んだ違いない。
2)「草もうの志士」による尊皇倒幕運動
 幕末、日本は(1)開国佐幕派対(2)尊皇攘夷派に二分されて抗争した、とされる。これらの2派は関ヶ原合戦の時の様に、地域的に分かれて抗争したわけではない。各藩がそれぞれ上記2派に分かれて抗争した、階層間利権抗争なのである。何故こういう抗争が発生したかというと、幕府が、開国したとき、どの様な利益・不利益が発生するか、その対策はどうかを、キチンと説明しなかった(する能力が無かった)ためである。それどころか幕府を支持する勢力に対してのみ都合の良い説明をし、反対者は無視したのである。だから井伊直弼が暗殺されるのも、矢無を得ないと言えば当然。
 トロツキー流表現を借りれば、鎖国とは保護貿易の最も極端な形態である。一方開国とは保護貿易の解除(一部から全面まで幅は広い)を意味する。開国で一番利益を得るのは商人階層である。事実、開国後巨富を得た商人は何人もいる。幕府・大名はそれに課税出来るから、従来の米本位制に比べ収入が増えるので開国を推進する。これに身分的に直結する上級武士も利益のおこぼれに預かれるから賛同する。以上が佐幕派である。ではこの利益配分に預かれるのは、どれぐらいいただろうか?江戸時代、日本の人口の90%は農民、残り10%が武士・町人。この内、実際に開国で利益が得られるのがその内の半分として、せいぜい数%である。
 これに比肩されるのが、今般のコイズミ改革。その中心は郵政民営化を始めとする各種規制緩和である。これにより利益を得られたのは、果たして国民の中の何%か?オリックス宮内とか、ホリエ、村上、福井他経団連コイズミ派企業とその係累のみ。その実態は低金利と、公共事業凍結による個人中小企業保有資産の銀行・大企業(財閥)、アメリカへの移動である。これに対し右翼はなにをしているか?財閥の走狗と成り果て、ひたすら堕落の道を歩むのみ。
 一方、不利益を蒙るのはどういう階層だったか?。自由貿易により、諸外国から安い農産物や鉱工業製品が流入してくる。最も打撃を受けるのは農民である。江戸時代後半には、日本でも初歩的な手工業が発達してきた。しかし、欧米の近代工業力とは比較にならない。例えば、阿波の藍は徳島藩の特権的保護商品だった。藍の価格は、藍生産者と徳島藩が独占的に決定していた。ところが自由貿易になると、アメリカあたりから石炭製の安い染料が幾らでも入ってくる。徳島藩の特権的利益は失われるのである。江戸時代、皮革製品は被差別民が特権的に細々と生産していたが、これも外国から安い製品が入ってくれば壊滅である。近代被差別民の困窮はこれに始まる。それ以上に困ったのは、彼らを直接監督し、徴税や公共事業の監督をやっていた下級武士である。彼らは郷士とか下士と呼ばれ、領主に直結する城下士とは身分的にも経済的にも切り離される。幕府の開国方針では、大名や上級武士の特権のみが保護される。下級武士は見捨てられるのである。農民は状況が変わっても、それに対応する技術・手段を持っているから、何れなんとかなる。ところが武士にはそれが無い。たちまち失業である。彼らの中に攘夷論が高まるのは必然である。と言うことで、各藩では上級武士(佐幕派)対下級武士(攘夷派)の抗争が発生するのだが、唯一上下を挙げて開国に反対した藩がある。それは薩摩藩である。と言って、薩摩藩全体が強い尊皇意識を持っていたわけではない。これまで薩摩藩の経済を支えてきたのは、実は密輸だった。何時の時代も、裏経済ほど儲かるものはない。これが自由化になると、薩摩藩が裏で輸入してきた商品が、表から正々堂々と入ってくる。密輸利権は壊滅である。これではいかん。断固開国反対、尊皇攘夷ということになるのである。それが証拠に、維新前までは日本最強の海軍を造るほど財力があった薩摩藩が、維新後暫くすると、たちまち財政力は下から数えた方が早い日本最貧県状態になってしまった。
 以上は「草もうの志士」登場の必要条件に過ぎない。これに十分条件を与えたのが、国学特に平田派国学である。国学を体系付けた本居宣長は伊勢松坂の産であるが、主な活動拠点は大坂だった。元もと、関西は古代の天皇陵や史跡が多く、古代の歴史が生活の中に溶け込んでいる土地柄である。そういうところの住民にとっては、江戸の将軍様より京都の天皇はんの方が馴染みやすい。その結果、関西を中心に国学が広まることになる。
 国学を学んだ階層は、上に挙げた下級武士(上級武士は専ら儒教)と、比較的経済的に余裕のある農町人階級である。江戸時代も後期になると、後者の中で経済力を背景に、武士に成り上がるものが出てきた(伊能忠敬もその一人)。鎖国時代、外国情報は長崎から入ってきたので、関西は外国事情にも敏感な土地柄である。そこに外国船到来やアヘン戦争などの情報が入って来れば、外国の侵略や貿易自由化への危機感が高まる。更にペリー来航である。もう幕府では頼りにならない。幕府とは別に京都には天皇がおられる。 天皇は過去のしがらみも無く、思い切った政策(つまり攘夷)の実施が可能である。従って、天皇への政権交替が必要である。それを理論的に支え、実は天皇は江戸の将軍より偉いと説いたのが、平田派国学で、これが上に挙げた下級武士や農町人階層、つまり支配層と被支配層との境界領域の住民に浸透していった。そして彼らは「鬱勃たる憂国の情」と「攘夷断行の決意」を胸に秘めて故郷を去り、京都に上り、攘夷倒幕運動に挺身する。又、諸外国は開国と同時にキリスト教布教の自由も幕府に要求した。これに危機感を抱いた既製宗教家、つまり神官・神道家、還俗した僧侶なども同様に攘夷倒幕運動に参加する。と言えば格好良いが、実態は反対派に対するテロ活動。彼らは封建支配秩序の枠外にある。だから、彼らを「草もうの志士」と呼ぶのである。無論、幕府も黙っていられないから、会津藩主松平容保を京都守護職に任じ、更に浪士隊(後の新撰組)を派遣して彼らの弾圧に乗り出す。後はおなじみチャンチャンバラバラの世界。
 さていよいよ慶応4年、王制復古の大号令が下される。彼ら「草もうの志士」の多くは、〇〇勤王隊という義勇兵を組織して官軍に参加する(京都時代祭りの先頭を切る鼓笛隊は丹波勤王隊)。では彼らの運命はどうなったでしょうか?はっきり言えば、明治新政府は彼らの期待を裏切り、それどころか役に立たなくなれば弊履のようにに捨て去ったのである。赤報隊の悲劇を見よ。「草もうの志士」の期待は、第一に攘夷の断行、幕府・大名・豪商に独占されていた富の公平分配・・・但しこれは彼らまでであって、その下の一般農民や庶民は対象外。赤報隊が抹殺されたのは、一般農民や下層民まで、利益配分対象が広がると宣伝したためである・・・、そして幾ばくかの論功行賞・・・例えば官職・・・であった筈である。ところが、新政府のやったことは、開国欧化政策の推進、復古派公卿と藩閥による官位の独占、財閥による利権の独占・・・またも利権の分け前にありつけなかった・・・だった。その結果、再びテロが繰り返されるのである。
 明治二年正月、新政府参与横井小楠(開明派)が、御所から出たところで、十津川郷士を中心とする6名の暗殺団(「草もうの志士」)に襲われ、小楠他一名が死亡、他が重傷を負うという事件が起こった。犯人はかねてアジトにしていた、京都市内の十津川郷士宿舎に逃げ込むが、同日夜には官兵が踏み込み、三名が逮捕死亡負傷、他三名の内二名は逃亡先で逮捕、一名行方不明となった。問題は政府がどうして犯人が十津川郷士ということを知っていたのか?どうして、犯人が小楠の退出予定を知っていたのか?更にどうして、政府が最初の逃亡先と、その先の逃亡先を把握出来たのか?である。最近の研究で、彼ら十津川党は、中川の宮・参議岩倉具視(復古派)を頼りにしていたが、十津川党と岩倉との間に、ある人物がおり、岩倉はこれを通して、小楠暗殺の承認を与え、逆に十津川党の動静を把握していたことが明らかになった。この人物はつまり二重スパイをやっていたのである。更に大久保利通もこれに拘わっていたと云われる。このことから、岩倉は十津川党の小楠暗殺計画を知ると、彼らを利用して、いずれ政敵となる横井小楠を抹殺し、返す刀で邪魔になった郷士を消してしまおうと計った、と察せられるのである。なおその後、大久保も岩倉も暗殺されるのだから、自業自得と言えばそれまでだ。十津川党が岩倉等に接近した理由は、中世以来の禁中護衛という特権を回復したいだけ。だから十津川党は倒幕軍にも参加していない。
 明治22年2月11日、憲法発布の当日。文部大臣森有礼(欧化主義者)が、壮士西野文太郎(これも「草もうの志士」の残党か)に斬殺されるという事件が起こった。理由は「伊勢皇大神宮に対し不敬の段之有り」というものである。西野はその場で警護の警察官に斬り殺されるが、その墓には大勢の市民の墓参が絶えず、一体どちらが犠牲者か判らぬ、という状態になってしまった。これには右翼側の動員も有ったかもしれないが、志士を利用するだけして、その後見捨てるという、冷酷な新政府に対する一般市民の無言の抗議という面もあったと考えられる。コイズミチルドレンはこの事件をどう思うでしょうか?
 では彼ら「草もうの志士」を煽った平田派国学者はこの間どうしていたのだろうか。彼らは維新志士の不満(実際、一部を除いて維新志士の大部分はあてが外れて、生活に困窮していた)を尻目に、新政府中枢に食い込み、国家神道を立ち上げ、その指導階層に収まってしまった。そしてその総仕上げが靖国神社であった。これにより、日本の伝統神道(我々と一緒に暮らし、共に遊び、喜怒哀楽を共にしていた「ムラの神様」)は大きく変質してしまったのである。

3、平田派国学と靖国神社
 古代、日本の神社で祀られているカミは大きく
 1)天皇家やその親族、家臣団の祖霊神(アマツカミ)・・・・アマノコヤネ、イザナギ、アマテラス等
 2)アマテラス以前に日本にいた地域神、自然神(クニツカミ)・・・・オオモノヌシ、オオクニヌシ、ヒトコトヌシ等
 3)海外からの渡来神・・・八幡のカミ、ヤヒコのカミ、スクナヒコナノカミ等
 に分類される。実在の人物をカミに祀る習慣は古代にはなかった。ひょっとして実在ではないか、と思われるカミもあるが、神話・伝説の彼方であり、確証を得るのは難しい。ここで「祀る」という言葉の意味であるが、「祀り+上げる」、「祀り+去る」というように、「祀る」には、カミを人間社会から遠ざける、影響を絶つという意味がある。カミの神格には和魂(ニギミタマ)、荒魂(アラミタマ)の2種類があって、特に古代人が関心を持ったのは、荒魂である。荒魂、つまり荒ぶる魂を放っておくと、カミの機嫌が悪くなり、地震・災害・疫病・戦乱などの災厄が生じる。これがいわゆる「祟り」である。カミの祟りを防ぐために、カミを神社に祀り、祭礼によって荒魂を鎮めてきた。稲荷大明神は代表的な祟り神である。賑やかなことが好きで、放って置かれると様々な祟りを及ぼす。そこで困った朝廷が、稲荷に正一位を送っておだてておき、更にその周囲に商業・芸能などの賑やかな街を造って、稲荷をなだめてきた。それがいつの間にか、稲荷がいると街が賑やかになるというので、主客が転倒し、商売繁盛の神になってしまったのである。
 さて、平安期以降、実在の人物をカミとして「祀り上げる」ケースが増えて来る。これは御霊信仰に基づくもので、「祀り上げ」られたカミは皆、この世に激しい恨みを持って死んだ怨霊神である。例えば、早良親王、崇徳上皇、菅原道真などである。これらは恨みの強さに恐れて、朝廷自らが神祀りしているのである。朝廷が祀り上げたカミは、全て国家(朝廷)に仇なす怨霊神である。いやそうじゃない、神戸の湊川神社は大忠臣楠正成を祀っているではないか、と思われるだろう。ところが、湊川神社が大神社になったのも、楠正成が大忠臣になったのも、明治になってからである。それまでの湊川神社は大したことのない、地方の一神社で、それも楠正成の怨霊を鎮める鎮魂社だった。明治まで、楠正成は国家(北朝)を守る護国神ではなく、国家に仇なす怨霊神だったのだ。太平記に、死んだ楠正成が百頭鬼となって、足利幕府と朝廷に祟るという話しがあった。「七生報国」という言葉は、正確には「七度生まれ変わって、国(幕府と北朝朝廷)に祟ってやる」という意味である。それが何故、忠臣物語になったかというと、南朝を正統とした水戸学派が、「大日本史」編纂にあたって、何も考えずに太平記の記述を取り入れたからに過ぎない。
 以上が日本のカミの伝統である。明治維新で官軍側も賊軍からも、大勢の犠牲者が出た。上で述べた伝統神道の思想からなら、神祀りされるのは、むしろ朝廷に反逆した賊軍の荒霊、つまり新撰組や彰義隊・会津藩士の霊でなければならないはずである。ところが、靖国神社で祀られるのは官軍兵士の霊である。上古以来、例え朝廷(天皇)のためであっても、朝廷(政府)が戦没平民兵士の霊を祀った例はない。しかも、明治10年には、陸海軍省の管轄に置かれる。神が武(兵)の監督下に置かれる事など、かつて無かったことである。このことから、靖国神社というのが、如何に日本の神社神道の伝統からかけ離れた存在であるか、ということがよく判る。殆ど異端と云って良い。乃木神社や東郷神社のように国家功績者を神格化する例が出てくるのも明治からである。つまり、明治維新を境に神道の世界でも、価値観の大転換が行われたのだ。それは従来の神道でも見られなかった天皇の神格化である。維新までは、京大坂の市民にとって、天皇は「天皇はん」であり、正月には市民が近くまで行って年始の挨拶をする、極めて身近な存在だった。特別な存在であっても、決してオカスベカラザル神ではなかった。ところが明治元年、天皇は薩長によって東京へ拉致された。これ以後、天皇が祖霊の地に帰ることはなく、蛮夷関東の地で天皇の神格化が進められることになった。神聖化の拡大再生産が始まったのである。それを演出し、推進したのが、平田派国学なのである。
 これが国家神道の成立であり、これによって、日本の神道は、敗戦まで平田流に染め上げられることになった。何故そうなったか?江戸時代、幕府の統治方針から、神道は儒教・仏教の風下に置かれていた。これは神道側にとって、何とも無念な状況である。その状況を・・・いささか乱暴な方法だったが・・・うち破ったのが平田派だったのである。おかげで、儒教・仏教とは立場が逆転。神主の地位も上がり、国や自治体から補助金が出るから経営も安定する。当に平田様々である。現実の前には伝統など無視して良いという、コイズミカイカク路線そのものである。

4、日本右翼の変遷堕落
 これまで右翼の事ばかり書いて、左翼には注目を払わなかった。左翼は右翼と比べ、協調的平和主義的だったろうか?とんでもない。世界史的に見て、より暴力的だったのは左翼である。フランス革命当時の極左ジャコバン党は別にしても、19世紀半ばのヨーロッパに荒れ狂った国民革命を主導したのは左翼だった。その結果、ヨーロッパの反動国家では国王・皇帝の相対的地位が低下し、立憲制が成立し、国民統合の象徴として国旗・国歌が制定されるようになる。国旗・国歌は左翼の産物だったのだ。更に第一次大戦後のロシア革命の結果、ヨーロッパ、アメリカには左翼過激派が横行し、赤色テロや労働争議が頻発し、当に革命前夜の様相を呈するようになる。更に戦後、60年代のヨーロッパ、日本では極左思想に影響された学生革命運動が発生した。しかし、その後これら左翼運動は殆ど収束してしまった。辛うじて、かつての左翼運動の面影を残しているのは、グリーンピースのような過激環境主義者ぐらいである。ゴムボートによる日本捕鯨船への突撃など、かつての左翼街頭闘争の名残か。左翼思想というのは、純粋に観念の産物である。未来の理想社会など、誰も見たものはいない。だからそこへ行く道程を巡って、セクト対立が起こり、結局はお互いが自滅する結果になる。一方、観念は経験によって修正される。更に経験(感性的認識)は理性的認識に発展する。かつての過激行動が大衆の批判を浴びれば、軌道修正が可能なのである。つまり、行きすぎた左翼活動は、最終的には時間が解決する。

 一方右翼はどうか?右翼思想を作る基盤思想として、民族主義と国粋主義がある。こういう思想は人間の本能(ユングの云う集合的無意識)に由来するもので、これを極端まで突き詰めて行くと、排他的暴力主義に行き着く。それを体現するものが、いわゆる「原型」である。ユングは街頭を示威行進するナチ突撃隊を指さして、「これがドイツ人の『原型』だよ」と云ったとか、云わなかったとか。社会が政治的・経済的に安定している場合は、こういう本能は理性で覆われ、表には出てこない。従って、これをいたずらに危険視することもない。ところが、社会が何らかの形で不安定(1)になると、民族の集合的無意識が刺激され、それが解放されると、民族の「原型」が表に出て排他的行動を採るようになる。これが右翼運動である。日本人の集合的無意識を解放したのが平田篤胤である。一旦解放された意識は、もう元には戻れないから、その民族は民族のDNAが残っている限り、解放された「原型」と付き合って行かなければならない。後はどうやってこれをコントロールしていくかだけである。
 
 ここでは、日本右翼が発生以来、時の権力・体制とどういう関係を持って、その結果どういう変遷を遂げ、如何に堕落していったかをレビューする。ここで堕落とは何かであるが、別項で述べているように、右翼も左翼もその本質は保守反動に対するアンチテーゼである。それが、本義を忘れて体制と癒着したり、その走狗となったとき、それが堕落である。
 ヨーロッパの場合、その歴史から民族主義的対立が右翼発生の源になっている。現在問題になっている、欧州極右勢力の台頭も、もとは移民増加に起因する民族問題である。ところが日本では、地理的・民族的特色から、国内で民族主義的対立が発生するわけがない。これまで述べて来たことから、日本右翼は幕末から明治にかけて、主に平田派国学者によって鼓吹された国粋主義が起源である、と考えられる。特に日本の国粋主義は、復古主義という特徴を持っている。平田派国粋主義者は維新後、(1)体制指向の復古派、(2)市井に住む草の根右翼に分派する。彼らが何れも敵視したのが、欧化主義者、自由主義者である。明治のテロは主にこの線で実行される。特に自由主義者へのテロは政府権力側の歓迎するところとなり、政府 と(1)復古派との癒着が進むことになる。第一回目の堕落である。
 第一次大戦後発生したロシア革命の影響は世界中に飛び火し、日本でも革命脅威論が高まった。しかし、これはトロツキーあたりの誇大宣伝に惑わされた結果である。この影響で日本各地でも、労働組合の結成や労働争議が頻発する。いわゆる大正デモクラシーである。これに危機感を抱いたのが政府、財閥だった。この時、右翼は政府・財閥の走狗となってスト破りに走るが大したことはない。現実にはどうだったか。左翼破壊活動としては、共産党による大森銀行ギャング事件が有ったが、所詮銀行ギャングである。政府はこういった状態を、革命前夜ぐらいに勘違いして、左翼弾圧用に治安維持法を施行するが、それで検挙された左翼活動など、実にたいしたことはない。とてもじゃないが、その当時の左翼には、仮に国家転覆の意志があったとしても、全く実力が伴わなかったのである。
 問題は昭和になってからである。昭和になってから、浜口雄幸襲撃事件、血盟団事件等の右翼テロが続発する。その対象は明治の時の様に、左翼・自由主義者ではなく、体制派・権力側であった。その総仕上げが昭和12年の2.26事件である。左翼にはそれまでの相次ぐ弾圧で、革命どころかテロを行う力もなくなっていた。この頃の右翼の主な主張は、思想・言論の自由、政党政治の否定、腐敗政治家の追放、財閥解体と私有財産の制限である。まるっきり左翼の主張と変わらない。違うのは右翼側は天皇制を絶対視し、天皇の名の下の「昭和維新」の断行を主張する・・・これの根拠が平田派の云う「永世革命説」・・・が、左翼は天皇を否定(共産主義)、もしくは相対化(立憲主義)し、民主主義を実現しようとすることだけである。事実、昭和初頭、左翼と右翼が同席して意見交換したり、田中清玄のように共産党から右翼に転向したり、北一輝の様に右翼でありながら、当局からアカ呼ばわりされて、特高につけねらわれるものまでいたのだ。
 この時、岸信介や一部のエリート右翼は、従来のような強硬路線は止めて体制内に潜り込み、体制内から国家革新を狙うようになった。いわゆる新官僚の発生である。彼らを「昭和体制右翼」と呼ぼう。彼らは「天皇の官僚」として、「天皇の軍人」である軍部中枢と癒着し、「国家総動員体制」の形成に成功する。その結果、財閥・政党と「天皇の官僚・軍人」との癒着が進み、彼らのリーダー陸軍省軍務局長永田鉄山少将は連日財閥の接待相手に大忙し。この結果が相沢事件であり、2.26事件となり、最終的に国家の破滅を導いたのである。昭和13年、「国家総動員法」が成立し、翌14年に「国民徴用令」、「物価統制令」が施行された。更に翌15年には大政翼賛会が発足。これで一体誰が儲け、誰が権力を延ばしたのか?左右とも自由な言論は封殺され、立憲政治は死に絶え、経済に於ける財閥支配は更に強固なものとなり、富と権力が一部の官僚、軍閥、財閥に集中した。その絵を描いたのが、体制内に食い込んだ、昭和体制右翼だった。つまり、昭和体制右翼は国民を犠牲にして、自分達の利権拡大しか考えなかったのである。二回目の堕落である。実はこれらの法令は、過去日本の「先軍政治」そのものなのだ。しかし、実態は全く効果はなかった。敗戦が何よりの証拠である。それどころか、悪名高い「談合」の生みの親になったのである。これが効果を発揮するのは、戦後の復興と高度経済成長期。だから、北朝鮮の先軍政治など無視しておいて構わない。
 個人的であるが、筆者は2.26事件は、本当に右翼運動だったか疑問に思っている。あれは形を変えた左翼革命闘争ではなかったのか?決起将校が愛唱していた「昭和維新の歌」は、その後歌唱禁止になる。現在でもTV、ラジオでは放送禁止だ。戦後60年安保の後、新左翼の連中が酔っぱらって謳っていたのは、「インターナショナル」と「ワルシャワ労働歌」と「昭和維新の歌」だった、そうだ。一度、右翼の見解を聞いてみたいものである。
 戦後、GHQにより右翼は禁圧され、かわって左翼が表に躍り出た。ところが朝鮮戦争時の、日本社会の急速な左傾に危機感を抱いた政府とGHQは、左翼指導者を追放すると同時に右翼の復活を促した。児玉譽志夫、田中清玄、安岡正篤らである。後に「昭和の妖怪」岸信介がこれに加わる。これこそ昭和体制右翼の復活である。米ソ対立という国際政治が、日本の政治・社会運動に持ち込まれ、右翼運動も急速にイデオロギー性を帯びることになる。右翼・保守が敵としたのは、共産主義及び共産主義者と目される左翼である。かつて日本の右翼が敵視したのは保守体制派であって、左翼を直接攻撃対象にしたことは無かった(2)。ところが、ここに右翼が左翼を直接攻撃する環境が整ったのである。その結果、浅沼稲次郎殺害事件のような右翼テロが発生する。それ以降、アメリカに支援される保守・右翼と、ソ連・北朝鮮・中国に支援される左翼との間で、米ソ代理戦争が日本列島を舞台に繰り広げられるのである。それは三井三池争議から始まり、60年安保を経て、70年安保闘争に至る一連の政治現象を創る。なお、70年安保闘争は実質上68年の10.21国際反戦デーで終結したのであり、その後の東大紛争とか浅間山荘事件・淀号事件など、付け足しみたいなもので殆ど意味はない。この闘争は結局左翼側の敗北に終わるのだが、その原因は右翼・体制側が、アメリカをバックに強固に団結したのに比べ、左翼側は支援各国が互いに対立していたため・・・中ソ対立は極めて深刻な影響を世界の左翼活動に与えた・・・、国内左翼組織もそれに翻弄され、バラバラになったからである。なお、この時期に重信房子がパレスチナに移動している(何故「移動」というかというと、この時期、当局は重信をそれほど大物とは思わず・・・只の人権活動家と勘違いしていたのではないか・・・、公安の逮捕者リストにも載っていなかったはずである。だから脱出と言えるほど大げさなものではない)が、これは彼女がこの時点で、日本の左翼活動に見切りを付けた、ということだろう。この時期に注目されるのは、いわゆる戦後新右翼(理論右翼)の発生である。左翼の理論武装に対し、右翼側も理論で対抗しようと云うことだろう。それはそれで大いに歓迎すべきことなのだが、理論右翼そのものが、戦後右翼活動の中で主導権を採り切れていないのも事実である。右翼活動の主体を占めるのは、相も変わらぬ体制右翼である。
 さて1990年以降のソ連・東欧崩壊により、世界では事実上共産主義の脅威と云うものはなくなった。あの中国でも、最早実態は市場主義経済に基づく官僚資本主義国家である。今の右翼は何を敵としようとしているのか?現代右翼の意見発表の場である、文春「諸君」とか、サンケイ「正論」などの論調から推察すると、それは一つは中国・北朝鮮、もう一つは教育・言論に於ける自由主義者達である。これでは明治初期の国粋主義者の姿と変わらない。つまり永年かかって、日本の右翼は130年前に先祖帰りしてしまったのである。現在、「戦争を知らない世代」を中心に産まれている平成右翼は、かつて体制内に食い込んだ昭和右翼とは異なり、主にマスコミとインターネットを中心に活動の場を広げ、政府・保守政党、教育界、出版・放送界に影響を与えている。特にTVマスコミやネットの影響は大きく、現代日本世論の保守化・右傾化を増幅している。彼らテレウヨ、ネトウヨの論理・知識は実に幼稚で底が浅く(右翼と左翼の区別も出来ない馬鹿・・・(例)TVによく出てくるアホ評論家や間抜け弁護士・・・が、自分は右翼だ、などと思っているのだから)、まともな議論の対象にならない。怪しからんのは、彼らを視聴率稼ぎのためだけに利用し、日本の国論を誤った方向に導こうとする独占マスコミ資本である。彼らに操られた現代浅薄俗物右翼は、何れ体制内に吸収され、体制の一部(平成体制右翼)として大衆を抑圧する方向に動くだろう。そのイデオローグが石原慎太郎なのだろうが、これは既に都政を私物化する俗物権力者、マスコミ受けだけ狙った通俗芸人に成り下がってしまった。三回目の堕落である。

(1)最近見られるテレウヨ、ネトウヨ的保守論調の始まりは、80年代尖閣列島問題あたりがはしりで、その後、バブル崩壊時に大きくなり、更にコイズミ政権下で大きく拡大した。この間、様々な社会的・政治的変動は有ったが、社会そのものが不安定化するほどのものではなかった。国民資産はまだまだ十分有ったのである。日本国内世論の保守化、右傾化の原因は国内問題からと言うより、中国の急速な経済拡大、軍備拡大のために日本人の一部、特に支配階層と思っているたわけ者達・・・例えば石原シンタローとか、安部シンゾーとか・・・が自信をなくし、それに同調する間抜け達の発言が集合的無意識に作用したのだろう。冷静に考えれば、中国の脅威など大したことではないのだが、一旦こういう妄想にとりつかれると、合理的判断を無くしてしまう。それが「原型」のコワイところである。

(2)大杉事件が有るではないか、という意見があるだろう。関東大震災の折り、憲兵大尉甘粕正彦が、社会主義者大杉栄を拷問死させた事件で、これを右翼による左翼弾圧事件の一例とするのが、これまでの見方である。しかし、実際に大杉を殺したのは甘粕ではなく、金沢第九師団某部隊で、甘粕は身代わりになっただけだ、という説もある。実際甘粕の性格は結構複雑で、単純右翼とは割り切れない。甘粕は陸軍をクビになった後、十河信二に拾われて、満映理事長に収まるが、その保護の下で、内田吐夢のようなバリバリの主義者が、好き勝手な映画を創っていたのだから。満州時代に石原完爾と知り合い、その識見に惚れ込み、戦争が泥沼状態となった昭和19年、東条と石原の会談を取り持つが、あまり良い結果ではなかったようだ。

5、まとめ
 さてそろそろまとめに入ろう。国家というものを何処かに飛んでいく鳥に例えよう。鳥は胴体と頭、それと右左の翼からなっている。殆どの国民は胴体の中にいる。鳥をコントロールするのは頭で、かつては国王・皇帝だったが、今では政府・議会・財界が主要要素。最近ではマスコミの力が大きくなっている。ところがこの頭はしばしば腐敗したり、混乱して方向を間違え、とんでもないところに胴体を導こうとする。一般に視力が弱く、ド近眼だったり色盲だったりするので、目標を見失う事がしばしばである。その時一方の翼が胴体と一体になったらどうなるか。胴体はたちまちバランスを失い、あらぬところに飛んでいくか、墜落である。その例がかつての大日本帝国であり、最近のソ連・東欧である。胴体の無い翼などあり得ない。かつての左翼や右翼は、翼が先にあって、胴体は後から付いてくると思いこんでいたのである。翼の役割は頭や胴体が妙な方向に行かない様に、姿勢をコントロールすることである。右に行きすぎれば左に、左に行きすぎれば右に、という具合にだ。問題は日本の右翼がこのような能力を持っているか、である。残念ながら、その可能性は極めて乏しいと云わざるを得ない。その理由は、ベースに殆ど宗教と云って良い平田流国学があるからである。その象徴が「靖国神社」である。平田流国学の影響を受けている限り、日本の右翼は国際的にも認知されず、従って一般市民の支持が得られるほどの普遍性も持てない。最早21世紀である。古くさい、神国思想や権威主義など捨てて、新しい論理を組み立てることが必要である。少なくとも、海外右翼や左翼とも共通認識が持てる程度までには、だ。
(06/12/26)


 筆者は、実を云うと、この年まで皇国史観というものがよく判らなかったのだ。しかし、実際これを理解している人間は日本にどれほどいるでしょう。今、自分は保守だ、靖国を守れ!と云っている人間だって、どうだか判らないのである。あの加藤の実家に放火した、オールド右翼の堀米も、その上部団体もどうだか判らない。その謎は先日の國學院大某教授に対する毎日新聞のインタビューで、よく判ったのである。この教授が、皇国史観の持ち主であることは云うまでもありません。
このインタビューで判ったのは、皇国史観の持ち主の頭には、日本の歴史は明治維新以後しかない、ということです。いや、正確ではありません。おそらく頼朝の鎌倉開幕から、慶喜の大政奉還に至るまでの、武士の歴史を認めない、というのが彼らの基本的立場でしょう。おそらく皇国史観主義者にとって、この700年間は欠史時代なのです。そうなら、色々、これまで判らなかったことが判って来ます。皇国史観の泰斗、靖国派の教祖、故平泉澄が東大教授の時、学生が日本農民史を研究テーマに挙げたいと言ったら、「ブタに歴史があるか!」と一喝したという話しがあります。農民をブタとは、非道い差別感の持ち主だ、とお思いでしょうが、皇国史観ではこれは当然なのです。
 「農は国の大本なり」と云ったのは大江広元(1)ですが、これは武士の本分である農を忘れ、京の公家文化に染まった平家が、農をベースにした関東武士団(これを源氏と思っている人が多いと思いますが、実は関東平氏を中心にした関東の源平連合軍)に脆くも敗れ去ったことへの反省です。公家文化の、農民文化に対する敗北の始まりである。戦国末期農民出身の豊臣秀吉が天下を統一した。朝廷は彼に関白太政大臣という、臣下としての最高位を与えなくてはならなくなった。更に徳川幕府は身分制を定め、農を武の下、NO2の地位に上げ、国家統治の重要な要素として認知し、体制内に組み込んだのである。鎌倉以来の武農複合体の完全勝利である。逆に、朝廷・公家は身分秩序外に置かれた。要するに、体制側から無視されたのである。エタ・ヒニンでさえ、体制の一部に組み込まれている。エタ・ヒニンでも幕府に対し訴訟を起こすことが出来るが、朝廷・公家はそれが出来ない。扱いはエタ・ヒニン以下だ。朝廷・公家にとってこんな屈辱はない。この反動が国学運動から皇国史観の完成に繋がり、武士に連なる農民に対する過度な蔑視となったのだろう。しかし、今でも皇居内では、毎朝餞を捧げる儀式が行われ(餞は農漁民からの献上品)、春夏には皇居内で天皇による御田植え、初穂刈りの儀式が行われる。古代の天皇家の権力の源泉が、農にあったのは間違いない。何時の間にか農を忘れてしまった。忘れてしまったから、武士に権力を奪われる結果となったのである。これを自業自得という。

(1)これだけ見ると、広元は単純な農本主義者のように見えますが、そうではない。彼は、後に鎌倉幕府の政治顧問に招かれ、貞永式目策定に貢献しています。京都にいて、公家や公家化した平家の無能振りに愛想を尽かしたのでしょう。農(生産経済)を忘れた平家は、より利潤の大きい商業、特に南宋貿易(市場経済)にのめりこんでいく。農民を無視したため、軍隊の直接動員能力は低下する一方。とうとう西国諸勢力を金で雇わなければならなくなったが、その金も何時しか摩耗していく。足下を見られたが最期、みんなに無視され最期は水上生活者。一方の源氏は、土地(農)をベースにした関東武士団の支持を得たので、常に大量の兵力動員を可能にした。平家は生産拠点の維持更生を無視したため、生産現場の反感を買い、その隙をついた源氏による敵対的TOBに屈して、結局会社を源氏に売ることになり、自らも破滅することになったのです。「かせげ、かせげ」で大事故を起こして、世間から猛反発を食らった何処かの鉄道会社みたいなもの。
 広元の云わんとするところは、即ち「国の基本は軍事力である。その軍事力を支えるものは農民である」。20世紀、これに基づいた大日本帝国陸海軍は、都市住民をベースにしたアメリカ合衆国陸海軍に敗れた。そのアメリカもベトナムでは農民軍に敗れ、今イラクで手こずっている。一般的に都市型軍隊が農民型軍隊に、永続的勝利を収めた例はない。現在、我が国はコイズミカイカクのおかげで、都市と地方、特に東京と地方の格差が広がってしまった。これではまともな軍隊は作れない。せいぜいおもちゃの軍隊だ。
(06/09/01)

 08/15コイズミ靖国参拝について、皆さんあれこれ云っているが、どれも的外れで、話しになりません。コイズミが08/15に靖国神社に公式参拝した目的は、やれ約束だ公約だといったきれい事ではなく、来る総裁選での安部への支持固めです。その為に必要なことは何でしょう?党内及び支援団体の引き締め、と外部に敵を作ることです。これこそこれまで、コイズミが使ってきた手です。それぐらいのこと、判らないのですかねえ。
1)内部の引き締め
 7月末、いきなり富田メモというものが出てきた。これによって世論、特に最大の支持母体である日本遺族会の結束にひびが入りかけた。谷垣は在任中の靖国参拝は見合わせると云っている。麻生の動きも曖昧だ。おまけに安部の4月参拝がばれてしまった。ここに08/15参拝を決行する事によって、ゆるみかけたタガを締め直す必要が出てきた。
2)外部に敵を作る
 コイズミは、政権奪取後、外部に敵を作ることにより、自他の違いを鮮明にし、政権を安定化することに成功してきた。靖国問題の最大の敵は中韓、就中中国です。靖国参拝を強行することにより中国の反発を誘い、それを利用して国内反中世論を強化し、対中強硬派である安部支持を固める。
 以上ですが、1)については概ね成功したと考えられます。しかし、2)は失敗した。中国政府は国内での反日活動を完全に押さえ込んでしまった。コイズミの挑発には乗らなかったのです。
 靖国問題というのは、無論政治問題です。それを一番政治的に利用してきたのが、他ならぬコイズミです。しかし、国際問題ではありません。又国内政治問題でもない。実態は自民党党内問題、或いはコイズミの頭内問題だけかも知れないのですよ。いや、靖国神社の営業問題か。
(06/08/22)

 昨日のコイズミ靖国参拝。早速マスコミでは、「これからのアジア外交が懸念される」とか、「対中経済関係が不安になる」とかの見方が飛び交っています。そんなこと当たり前でしょう。始めから判っていることです。コイズミが8.15に靖国参拝をやって、対中関係が改善されると思いますか?この点が日本のマスコミの馬鹿さ加減がよく分かるところです。

 昨日(08/15)、丁度コイズミの公式参拝が終わった頃、偶々TVのスイッチを入れると、妙な評論家というのが出てきて、色々喋っている。何を云っているのか、殆ど判らなかったが、一つ「・・・中韓は過去の歴史認識や戦犯問題を出すが、日本はアメリカに対し、原爆や都市爆撃の補償を要求していない・・・」。ココロは「だから、中韓も日本に対し、戦争責任でとやかく言うな(つまり、総理の靖国参拝にいちゃモンを付けるな)」ということだろう。皆さんは既にお分かりと思うが、このオッサン、大事なことを忘れている。それは、日本が連合国(米英ソ仏中)に対し、国家として無条件降伏したという事実である。無条件降伏とは、敗戦国は戦勝国に対し一切の要求・請求をしない、逆に戦勝国は何でも請求出来るという、極めて偏った契約である。しかし、これを呑まなかったら、あらゆる手段で国土は破壊され、人民は殺傷され、国土は永久に占領されてしまう。かつてユダヤ王国がバビロニアに占領され、ユダヤ人がバビロン虜囚の憂き目にあったようにだ。それが嫌なら戦争に勝てばよかったのだ。負けたからこうなった訳で、これこそ最近流行の自己責任では無いでしょうか?危機管理の専門家らしい佐々淳行など、どう考えるのでしょうかねえ?
 日本の無条件降伏の延長線上に極東軍事裁判があり、サンフランシスコ平和条約があり、日米安保体制が存在するのである。どうも、このあたりを理解していない評論家というかマスコミ関係者がいて・・・それは特に団塊の世代以下に多い・・・、それらがマスコミを通じて駄論・妄説を繰り返すのである。日本が無条件降伏した以上、日本政府がアメリカの戦争行為に対し、抗議や補償要求を出来るわけがない。だから原爆補償も、日本政府が肩代わりしなければならないのだ。無論民間レベルでは何でも出来る。ただ、それを認めるかどうかは相手次第。かつて日本の市民団体が、アメリカで原爆展を開こうとしたら、アメリカの在郷軍人会が猛反発しておじゃんになったことがある。民間レベルでさえ、戦勝国と敗戦国とではそれぐらい意識に差があるのだ。
 日本と中国との関係では、・・・この際、韓国はどうでもよいので無視する・・・中国が戦勝国で、日本が敗戦国だ、という厳然たる事実がある。中国は日本の戦争行為や戦後処理に対し、クレームを付ける権利はあるが、日本にはそれを拒否する権利は無い、ということだ。ドイツの場合は、それどころか、ユダヤ人に対する罪まで裁かれている。だから、今だにイスラエルから何を云われても文句がいえない。ドイツでは、ホロコーストを否定する言論を発表すると、逮捕されてしまう。これもあまり度が過ぎると、ドイツ国内にナショナリズムが発生し、反ユダヤ感情が増加して、ナチズムの再来が無いとは云えなくなる。これを日本に適用すると、南京大虐殺を否定する論説を述べると、逮捕されるということになる。文春「諸君」やサンケイ「正論」などは、とっくの昔に廃刊、編集長や執筆者は刑務所行きだ。個人的にはそうした方が良いと思うが。少なくとも日本ではそこまで行っていないから、中国はユダヤ人やイスラエルよりはまともな国だ、と云える。
 なお、日中の関係でも、大変な誤解が日本側にあるようだ。サンフランシスコ平和条約に関連して、中国(当時)の蒋介石は、「恨みに報いるに恩を持ってする」ときれい言を行って対日賠償請求権を放棄した。これは当時大変な美談ということで、日本にも大きく報じられ、岸・福田のような保守馬鹿がこれに感激して、将派になってしまった。ところが、実態はアメリカがいち早く対日請求権を放棄してしまったので、それに追随したに過ぎない。その理由は、(1)一つはソ連との対決という状況の下で、日本を自陣に取り込む必要もあったこと、(2)第一次大戦の戦後処理で、イギリスが法外な賠償請求したため、ドイツにナチズムを造ってしまった、という反省があったからである。蒋介石もその辺の事情は百も承知だったが、自国民向けには、いくら何でもアメリカ追随とは言えない。そこで考え出された理屈が、上述の将発言になるのだ。共産中国が国際復帰した後、毛沢東は蒋介石の発言を踏襲して、対日戦争補償は要求していない。これは毛・田中日中共同宣言に顕かである。それに対し、特に90年代以降、盛んになったのは対中ODA問題である。一部の論調では、中国が日本に対しODA を要求している、それに応じるべきではない、と反中宣伝に利用されている。しかし、対中ODAとは実は日本国内問題だ、ということを誰も報じないのである。現在、日本企業特に公共事業に関連が深いメーカー・商社は国内市場に見切りを付け、円安の追い風もあって、中国市場に焦点を合わせている。例えば、ある商社が中国国内で、あるニーズを見つけたとする。それは橋梁でも何でも構わない。それの改良プランを中国政府に持ち込む。中国側はそれほど興味を示さない。日本の金で出来るなら、やっても構わないよ、という態度。これが対中ODAに化けるのである。そこで商社は、そのプランを政府・自民党に売り込む。日本開発銀行辺りが債務保証して、対中政府融資が始まるのである。しかも、その受注業者は全て日本企業。真紀子が首になって、後がまになった川口外相の時に、外務省は対外アンタイドローンの廃止を発表している。つまり、対中ODA とは実は、ひも付きで日本企業向け救済策だったのだ。その陰で相当部分が、自民党政治家の懐に入ったのは間違いはない。この程度は常識ですよ。以上はこれまでの田中派支配の構図であるが、橋本派崩壊後の今は、森派とかコイズミナントカがその空隙を埋めているのだ。無論、対中ODA の多くは砂漠化対策とか、環境対策といった真面目なものなので、全てが性悪ではありません。しかし、日本企業、中国地方政府主導のODAの問題は、そもそも目的が地域住民のニーズに沿ったものでなく、日本企業・地方政府の利権主体で動いているものだから、土地収用やなんかでトラブルを起こすケースが多く、長期的には日本の国家利益を損なうものもあるや、に聞いている。
(06/08/16)

今頃になって、安部の4月靖国参拝が問題になっています。何で、今頃問題にするのでしょうか?こんなこと、4月時点でみんな知っていたのでは無いでしょうか?それを今まで隠し、これからどうするかも有耶無耶曖昧答弁で誤魔化そうとするのは、性姑息にして狡猾な安部の面目躍如。
(06/08/06)

 8/15が近づいています。コイズミはどうするのでしょうか?どうでも良いですがね。
1、コイズミは靖国参拝を「これは心の問題だ」といった。ココロは総裁選の政治問題にするな、ということ。しかし以前、経済同友会が対アジア外交重視、対中関係改善を政府に要望した・・・つまり、靖国参拝を自粛してくれということ。ところが、コイズミは「政治と経済は別だ」と言い切った。政治とは靖国参拝のことです。つまり、コイズミ自身、靖国問題とは政治問題であることを認識しているのです。ではどういう政治でしょうか?5年前、自民党総裁選に打って出たとき、コイズミは日本遺族会に、在任中の靖国参拝を約束しています。これが彼の云うところの政治です。英霊を票としか見ない。冷血漢コイズミの面目躍如。
 又、ある時はココロの問題といい、ある時は政治の問題という、この支離滅裂・デタラメ振りが当にコイズミ政治なのです。これの継承を主張する自民総裁選立候補者など、自分の頭がデタラメ・支離滅裂であることを、自ら告白しているのと同じ。
2、性姑息にして狡猾な安部の狙いは東京軍事裁判の否定です(加藤紘一説)。祖父がこれで有罪になっているから、気持ちは判らないでもないが、公私のけじめは付けなくてはならない。実は私も個人的には東京裁判には否定的です。しかし、これを完全に否定しようとすれば、越えなくてはならない大きなハードルがありすぎる。
1)東京裁判は、開戦責任を問うたものです。これは連合国側の論理です。しかし、日本国民としてはむしろ敗戦責任を問わなければならない。何故なら、靖国問題のような不毛で下らない問題が起きるのも、戦争に負けたからです。戦争に勝っていれば何の問題もない。従って、開戦だけでなく敗戦責任者に対する軍法会議を開くべきです。幾ら何でも、国民にあれだけの災厄を与えた責任者を、不問にするわけには行かないでしょう。この場合、今のA級戦犯の中で、名誉回復される人も出てくるが、逆に東京裁判で無罪になったり、現在靖国に祀られている人の中に、有罪になる人が出てくる可能性があります。
2)東京裁判を完全否定したとき、アメリカ国内世論はどう動くでしょうか?よその国のことなど、どうでも良いと云えば良いのですが、対中関係だけでなく、対米関係も悪化させる可能性があります。
3)極東裁判は国際裁判です。これを否定するためには、日本国内でワアワア騒いでいても仕方がない。構成5ヶ国(米英仏露中)全部が納得しなくては、日本だけ否定しても意味はない。だから、東京裁判否定論者は国内世論より、まずこれら5ヶ国の説得に廻らなければならない。安部にそんな度胸が期待出来るでしょうか?
 これに関連して、東京裁判は軍事裁判ではなく、政治的意図を持ったショーである、という議論があります。当たり前です。戦勝国による敗戦国を裁く裁判が、政治ショーでなくて何なのでしょう。戦争とは暴力で以てする政治の延長である(クラウゼヴイッツ)、こと位は誰でも知っている。戦争とは政治で始まり、政治で終わるものなのだ。それを裁判ショーという形に仕立てたのが、ショービジネスが盛んなアメリカだったのは、当たり前過ぎる当たり前。
4)東京裁判の否定はサンフランシスコ平和条約の否定にも繋がります。その場合、日米講和の基本条件が危うくなることになります。そうなると、日米安保条約まで危うくなるのです。
5)国賊東条の孫のババアは、A級戦犯という呼び名が気に入らないらしいが、A級戦犯と呼んだのは、日本人ではなく、連合5ヶ国です。この言い方が気に入らなければ、是非これら各国の了承を採ってからにして下さい。個人的な恨みをあれこれ喚いても、廻りが迷惑するだけ。国賊の子孫は黙っておくこと。
 「日本は悪くなかった。それは別にして、日本を守ってくれ」。そんな良いとこ取りの理屈は通らないでしょう。だから、戦争は一旦始めたら勝たなければならない。負けを承知で戦争を始める馬鹿が何処にいるか!それだけでも。東条は縛り首に値する。
(06/08/05)


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