揖保の国と出雲



これは兵庫県播磨町の弥生遺跡で見つかった、シャーマンとされる異物。これは土器ではありません。宝殿石と呼ばれる、東播地方に産出する石材です。古第三紀天下台山層群に属する火山礫凝灰岩です。多孔質で脆いので加工しやすく、石材として広く使われています。弥生期には青銅器が入っていますから、宝殿石の切り出し、加工はそれほど難しくはない。関東では大谷石がこれによく似ている。
 ということは、弥生期には既に宝殿石が石材に使われていたということだ。
(22/09/24)

 昨年、ある本を読んだところ、永年疑問だったイ族の謎がとけました。古代朝鮮民族には、虎をトーテムとするワイ或いはエと称される一族と、熊をトーテムとするハク又はメクと呼ばれる一族である。前者が男性原理、後者が女性原理を現し、両者が交わって大壇君を産んだとされる。ワイ族は2世紀頃高句麗に圧迫されて南下し、一部は百済に吸収され、一部は日本に渡ったと云われる。又、金属採掘精錬に優れた民族で、日本に金属精錬技術を伝えたとも云われる。
 ところで、古代朝鮮語も古代日本語も8母音である。その後、日本では5母音に変化していったため、かつてあった中間母音がなくなった。もし中間母音が残っていたら、どちらかの母音に合わさなくてはならない。例えばエとイとの中間母音は、エかイのどちらかになる。しかし、実際のオーラルでは明瞭に区別出来ず、互いに交替することがある。例えば、関東ではイとエがひっくり返ることがある。茨城ではイバラギがエバラギに、エドがイドになったりするのである。三波春夫の名曲「大利根月夜」をジーット聞くと「・・・江戸へ江戸へ一掃け茜雲」が「・・・イドへイドへ一掃け茜雲」になっているのである。西日本でも、「イイ(良い)じゃないか」が「エエやないか」に、「イカン」が「アカン」になったりする。つまり母音ア・イ・エの区別は非常に曖昧なのである。従ってワイ又はエが、日本ではイイとなり更に転じてイになっても不思議ではない。
 つまり、古代日本の金属民であるイ族は、古朝鮮発祥のワイ又はエ族の末裔と考えて間違いはない。
(12/03/10)

 今、筆者は兵庫県西部龍野市の某コンサルの顧問をしておりますが、野暮用があって昨日同社を訪れました。会社の近所に「粒巫天照(ツブイマスアマテル)神社」という神社があって、由緒書きを読むと祭神は「イイボイマスアマテルヒコホウリノミコト注1」とか云うカミで、昔このカミが稲をこの地に伝えた処、一粒が万粒になって、大いに富栄えた。そこで推古天皇の時代に神社を造ってこのカミに感謝したと伝えている。さて、このカミは何処から来て、稲を播磨西部に伝えたのでしょうか?
 龍野市の中央には揖保川が南流し、これに沿って「出雲街道(現国道179号)」が走っている。つまり、龍野の地は古代から出雲と播磨を結ぶ要衝の地だったのだ。最近になって、梅原猛は出雲王朝を再評価し、ヤマト王朝との関係の再検討の必要性を指摘している。ヤマトと出雲との関係は、記紀に於ける「出雲の国譲り神話」から、ヤマトが出雲を征服したことが通説になっている。しかし、筆者はこれより前(摂津高槻に引っ越してから)に、このヤマト出雲征服説に疑問を感じるようになった。実態はその逆で、出雲がヤマトを征服しようとした(或いは征服した)のではあるまいか?京都の上鴨・下鴨両神社、摂津三嶋賀茂神社は同根で、賀茂氏の氏神である。賀茂神社の祭神はオオクニヌシの長男コトシロヌシノカミである。三島古墳群と三島埴輪工房から、山背・摂津は古くから出雲の影響下(或いは支配下)にあったと考えられる。更に、出雲のヤマトへの影響を物語るのは、ヤマト三輪のオオモノヌシノカミとこれを氏神とする物部氏の存在である。物部氏は河内陶で須恵器を作っていた(これも三嶋氏と共通する)。三嶋氏の王女で大神神社の巫女であったイスケヨリヒメは、カンヤマトイワレピコのヤマトに於ける最初の正后だった。これらの点から、筆者は出雲が摂津三嶋氏と連合しヤマト征服を企て、それに加わったのが物部氏と考えた。物部氏も三嶋氏もその後、イワレピコの子孫によって滅ぼされてしまったのは偶然の一致か?これまでは賀茂社の分布から、出雲のヤマト進出は京都・摂津を経由する山陰・丹波ルートを辿ったと考えていたのだが、今回「粒巫天照神社」の発見で、他に播磨・山陽ルートが存在する可能性が出てきた。そこで興味のあるのが、神戸市垂水「五色塚古墳」。この兵庫県最大の前方後円墳は、そのテッペンに登って明石海峡を見渡せば、これが海峡を制約していた「海の大王」の墓だということは誰でも気づく。ではこの大王は何処から来たのか?突然沸いて出てきた訳でもあるまい。出雲族がヤマト進出に先駆けて海峡を占領した名残とも考えられる。ではこんなカミガミがヤマトを目指したのは何故か?それを解く鍵は水銀である。これら外来のカミガミが列島にやってきたのは後3〜4世紀頃ではないかと考えられる。この頃、ヤマトは東アジア最大の水銀産出地帯だったのだ。
 何故水銀が重要か?その理由は金である。最近の考古学的研究で、中国ではBC1500年頃の殷王朝で、既に黄金文明があったことが判ってきた。金は金鉱石だけでは得られない。通常は金鉱石と水銀を混合加熱してアマルガムを作り、さらにそれを加熱して水銀と跳ばして金を得る。つまり、水銀は金の精錬に必須の物質だったのである。古代世界では、水銀は金と等価格で取引されたという。ところが中国では水銀が産出しない。そのため、中国周辺部族にとって、中国に水銀を輸出することは、莫大な利益を得ることになる。そこでアマテラス族が眼をつけたのが、日本のヤマト。ヤマトで水銀を産出するのは、主に「柳生花崗岩」という白亜紀後期の花崗岩。これに中新世に貫入した酸性岩脈周辺には水銀が濃集する。これの代表が宇陀郡にある「大和水銀鉱山」。又この南方の高取町は、昔から有名な製薬産地。古代薬品は主に鉱石を製錬して作られていた。その代表が水銀だったのである。そして、この地域を支配していたのが、出雲と関わりの深い物部氏だった。カンヤマトイワレピコとその一行(アマテラス族)が何故、ヤマトを目指したのか?アマテラス族とは一体何者だったのか?そして物部氏が何故滅ぼされたのか?それはヤマト水銀支配権争奪合戦だったのである。
(11/02/05) 

 ヤマトそして物部氏とくれば、やはりオオモノヌシである。オオモノヌシとはなに者か?崇神天皇紀にある箸墓伝説では、皇女モモソヒメの前に現れたオオモノヌシの本体が蛇であったことが判った(なお、伝説ではヒメはこの後、箸で陰部をついて死んだことになっているが、そんなことで死ねるのか、今でも不思議である)。蛇はインド錬金術では水銀、中国錬金術では金のシンボルとされる。当時の日本では金は産出されていないから、オオモノヌシとは水銀採掘精錬を生業とする技術者集団と考えられる。更に、崇神天皇紀では、ある時旱魃・洪水・内乱が続いたので、天皇はこれを憂えて占者に占わせると、「三輪のオオモノヌシが怒っている、アマテラスを遠ざけよ」という神託があった。当時アマテラス大御神は伊勢ではなく、天理の石上神社にあった。そこでこれを追い出したところ、天下は静まったとされる。哀れアマテラスは一時ホームレスとなり、諸国をさまよったあげく、今の伊勢に落ち着いたのである。さてこの一件、どう解釈されるだろうか?筆者はオオモノヌシに象徴化される金属民vsアマテラスに代表される農耕民の確執と考えている。時代をAD3〜4世紀とすると、世界的な気候変動で寒冷化が始まってきた時期である。ヨーロッパでは民族大移動が始まり、中国でも北方騎馬民族の侵入が活発になってきた。激動の時代の幕開けである。気候の寒冷化は稲作農業に大打撃を与える。つまり、収穫が不安定になる。天皇(出来たばかりのヤマト朝廷)にとって、収穫=収入が不安定な農業より、遙かに付加価値の高い金属(水銀、銀)のほうが有り難い。収入が安定するからだ。何故なら、中国の基準通貨は銀で、当時日本は東アジア最大の銀の産出国でもあった。従って、朝廷は収入不安定な農業より金属を取ったのだろう。
 しかし、気候が安定してくると、この立場は逆転する。農業生産が安定してくると、金属産業の持つ価値は下がり、物部氏の力は弱まる。その結果、従来物部氏と対立していた蘇我氏が台頭して、ついに物部氏は滅亡。更に蘇我氏は藤原氏に取って代わられる。藤原氏利権を支えたものは何か?この氏族の性格は結構複雑で、その時代時代に応じて、最もアップツーデートな産業を取り入れる。今の自民党のように、権力を保持することが目的で、国家経営は二の次という、実体があってないような集団なのである。藤原氏もしばしば農業 vs金属の確執に介入している。その例として、俵藤太の三上山ムカデ退治伝説*1、次いで源頼光の大江酒呑童子退治伝説*2が挙げられる。いずれも、農業 vs金属の確執を利用し、武士を使って介入し、最終的に金属利権を我が者にした例と考えられる。しかし、藤原氏の金属利権支配も中世・戦国の動乱を経て、遂に武士のものになってしまった。豊臣秀吉によって日本の鉱山は全て国家に一元化され、それは徳川幕府によっても受け継がれてきた。そしてこの鉱山の国家一元管理こそが、他のアジア諸国と異なり、幕末で日本の独立を護った唯一の根拠だったのである。
*1ムカデは中国錬金術では鉄のシンボル。近江特に伊吹山山麓は、当時日本有数の製鉄地帯。戦国時代、近江・美濃の鍛冶職人は鉄砲製造を始め、後に堺に移った。鉄砲術の名人とされた明智光秀、蒲生氏郷や鉄砲術で傭兵家業を始めた紀州雑賀党はいずれもこのあたりの出身。そして蒲生氏、雑賀党の旗印はいずれもムカデだった。
*2酒呑童子の酒呑は古代ペルシア語のシャイターン或いはシュイターン(後に英語のサタンに転じる)の当て字。酒呑童子とその一族は、おそらくイラン系渡来民だったと考えられる。丹波大江山は蛇紋岩で、明治以後にはチタン・ニッケル鉱山(河守鉱山)があった。蛇紋岩は超苦鉄質岩石で、酒呑童子らはそこから発生する鉄を精錬していたのではないか。チタンの存在も魅力的だが・・・チタン合金の剣は粘りがあって折れにくい・・・当時チタン合金を作ったり、ましてそれを加工する技術もなかったので、これは考えすぎだろう。
(12/03/11)

注1;イイボが転じてイボ(揖保)になったの(注2)は誰でも判るが、イイボの語源は何でしょうか?イイボは一つの言葉ではなく、イイ+ボに分けて考えた方が良いかもしれない。イイ(ヒ)が付く地名は他に、飯豊(イイデ)、飯縄(イイヅナ)等がある。それどころか、出雲平野の真ん中には斐伊(イイ)川と、そのものズバリのイイがある。出雲もイイヅモ(或いはイイズモ)が転じたモノかもしれない。つまり、揖保川流域はどっぷり出雲の影響下にあったと云える。ではイイとは何を意味するのでしょうか?斐伊川下流は水田稲作地帯だが、その上流は古代では日本有数の砂鉄生産地であり、金属鉱山地帯だった。ヤマタノオロチもこの地域在住金属採掘民。飯縄地方はやはり越後の経済・軍事力を支えた鉱山地帯(直江兼継は謙信からこの地方支配を命ぜられた)。飯豊地方もおそらくそうだったでしょう。イイとは、古代出雲地方を支配していた民族或いは集団のことではあるまいか?では、ボは何でしょうか?日本語で、異なる二つの言葉をくっつけた場合、第二節の先頭が子音の時、濁音になることが多い。例えばヒトコロシがヒトゴロシになるように。上記の地名はイイの次が全て濁音である。そこで清音に直すと、テ、ツナ、ツモ、ホとなる。これでもさっぱり何の事やら判らない。イイを大集団とすると、これらはそれに属する小部族とも考えられる(今でも〇〇組系□□会と言うようなもの)。彼等は出雲を起点として、鉄や金属を求めて日本各地に植民した。その過程で稲作農業を普及した。彼等は先住の縄文人や弥生人にとって先進民族だったのである。そして、彼等はカミとなり、地域支配者となった。そして揖保川流域はイイ族系ホ族の支配下に入った。その後、彼等は先住民と融合しのんびり暮らしていた。年に一度、彼等は故郷の出雲に帰り、宴会をやって遊んでいた(所謂神無月)のである。要するに平和ボケ。そこに突如現れたのが、カンヤマトイワレピコをリーダーとするアマテラス族。彼等の奸計に懸かってヤマトの出雲族はあっさりと降伏してしまった。今の日本が置かれている状況は1000数100年前とそっくりなのだ。歴史は繰り返す。用心々々。
注2;イイボがイボに転じたように、2番目のイが省略された例がある。それが筆者が育った摂津伊丹(イタミ)である。イタミの語源ははっきりしていないが、筆者はイ+タミと分解する方がよいと考える。伊丹の古語は猪名野(イナノ)。他に猪名川(イナガワ)というのもある。ナは所有格を現す助詞。即ち伊丹にはイと称する集団があって、イナノとはイ族が所有する野、イナガワとはイ族が所有する川の意。では「イ」とは何者か?ズバリ「イ」とは鋳物のイ、金属精錬民のことである。伊丹にはズバリ「鋳物師(イモジ)」という地名がある。イイがイに転じたとすると、摂津伊丹も出雲の支配下にあったと考えられる。そして伊丹の総鎮守は県社「猪名野神社」、高槻の総鎮守は県社「野見神社」。それぞれの祭神を見てみると、主祭神はタケハヤスサノオノミコト、ノミノスクネで、後に牛頭天王が合祀されているところまでそっくり。これらの神は鉱山・医薬の神でもある。スサノオは出雲の神。この点からも伊丹・高槻を含む北摂地域が古代出雲の影響下にあったことが判る。
(11/02/07)

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