沖ノ島の謎(日本古代史の闇)

技術士(応用理学) 横井和夫


 徳島県若杉山遺跡という弥生時代の遺跡で水銀採掘の跡が見つかり、早速こんな昔から日本人は優れた技術をもっていたなどと、日本ホメ番組のような解説がネットなどでは飛び交っています。百田の様なアホなら泣いて喜ぶだだろう。
 若杉山遺跡とはどんなところかと、産総研のシームレス地質図で調べてみると、どうやら外帯の中の「黒瀬川構造帯と云われる地帯にあるらしい。水銀は硫黄と化合して辰砂と呼ばれる鉱物の中に含まれる。これは一般には火山噴出物や火成岩の貫入面に付着して産出する。
 黒瀬川帯はプレート沈み込み帯に生じた付加コンプレックスで堆積岩を主とし、列島付加後も火成活動の跡は見られない。何故こんなところに辰砂が産出するのか?実はこの中に数は少ないが、銅硫化鉄鉱床がある。これの元はプレートの沸き上がり部に出来る海底熱水鉱床であるこの中に水銀や硫黄が含まれていても不思議ではない。
 それはともかく原日本人である縄文人が水銀採掘技術を持っているはずはなく、水銀を採取していたのは渡来人である弥生人に間違いない。では弥生人とは何者か?話はややこしくなるが、当時の中国大陸の混乱(戦国時代から始皇帝の統一まで)から逃れてきた人達だ。これは一つではなくルートも幾つかあったと考えられる。それがそののちの地方王朝を作った。この中に鉱山民がいたと考えられる。それを思わせる民話・伝説も残っている。
 では弥生人は何のために水銀を採掘していたのだろうか?水銀の用途は大きく、医薬品と金の精錬に分かれる。医薬品としては解熱剤・化膿止め・殺虫剤としての用途がある。もう一つが水銀アマルガム法による金の精錬である。これは金鉱石と水銀を混ぜて炉で加熱し、水銀アマルガムを作る。更に加熱すると水銀は昇華するので炉の底に金が残る(現代では王水・・・濃硫酸と硝酸の混合溶液・・・を使う)。つまり水銀は金の精錬にとって不可欠の物質であり、古代では金と同価格で取引されたという。
 当時の中国では既に黄金文明が栄えていた。水銀はそのための必須物質だった。しかし中国本土には金鉱石や水銀は殆ど産出しないので、周辺地域からの輸入に頼らざるを得なかった。これらはシルクロードを利用してインドやペルシャから得られるが、その一つに日本があった。当時の日本では金の採掘は行われなかった。ということはこの水銀採掘は、中国への輸出を目的として行われた可能性が考えられる。
 なお、記紀伝説によれば神武天皇とその一行は、とにかく大和を目指した。大和は三方を山に取り囲まれ、大陸との交易も不便で、また全体が湿地帯で農業も未発達。征服者にとって、そんなに魅力のある土地ではない。神武一行は大和に行くために生駒ではナガスネピコと戦い、紀ノ川では先住民の抵抗で兄を失い、更に熊野川の急流を遡り、大和に入っても先住民の抵抗にあった。何故ひたすら大和を目指したのか?それは大和水銀を手に入れるために他ならない。
 神武が即位したと云われる橿原を含む宇陀郡は、日本有数・・・・ということは東アジア有数・・・の水銀産地だったのである。おそらく神武族はその情報を、何らかの方法を手に入れたのだろう。そういう情報網を作るのは海賊が一番だ。つまり神武天皇の一族は当時東アジアに生息していた海賊だ、というのが筆者の見解である。
(19/03/03)

 鳥取の弥生遺跡(AD1世紀頃)から発見された人骨の、ミトコンドリアDNA解析により弥生人の大部分は大陸又は半島からの渡来人であることが判明した(11/18毎日新聞)。弥生文化の始まりはBC4世紀頃とされる。弥生人の渡来と弥生文化の成立は、その当時の東アジア世界の動きとの関連で考えるべきである。この時期中国では戦国の騒乱が終末期を迎え、秦の力による諸国併合が始まっていた。当然各国からの難民・亡命者が発生する。彼らが目指したのは一か所ではないはずだ。たまたま誰かが海流に乗って日本列島の何処かに漂着した。筆者はそれが九州北部の「沖ノ島」で、古事記の言うオノコロジマとはこれだろうと考えている。
 沖ノ島に渡った亡命者が次に渡ったのが北九州で、ここでできたのが「チクシ王朝」。先住の縄文人は南に追いやられハヤト族となった。問題はこれから先である。古代日本には他に多数の王朝があった。これらの王朝の成立には、次の二つのケースが考えられる。一つは北九州に植民したチクシ族が日本海沿いに移動し、山陰・北陸に新たに植民地を作った。それがイズモ王朝、コシ王朝で、更に彼らが列島内に移動した。イズモ族が移動してできたのがキビ王朝、そしてヤマト王朝。コシ族は中部・東海地方に移動しオワリ王朝を作った。彼らの祖先は独自のカミとなり、国津神の有力勢力となった。例えばチクシ王朝の神は宗像大社の神、イヅモ族の神は大物主→大国主神、コシ王朝は気比神、オワリ王朝は熱田神という具合である。
 一方これらの王朝(大陸からの植民地)の成立原因となった難民・亡命者の到来は、一回ではなく何派に分かれてやってきたはずだ、という考えもある。それは現在の中東→ヨーロッパ、あるいは中南米→アメリカへの難民の移動を見れば容易に想像できる。現在世界的にみられる移民・難民問題は世界史的に見れば、かつての民族大移動に匹敵する大事件である。ではこのような大事件はどうして起こったのか?大抵の歴史家・学者はこれを政治家・権力者の所為にする。しかし実は全地球的な気候変動にも左右されているのである。問題は時の権力者がこれに気付かず対策を怠ったからである。そのような愚かな権力者の代表が、現代ではアメリカのトランプと中国の習近平である。
(18/11/19)

 フレーザー(「金枝篇」)によれば、古代地中海世界では村からある人間を選び、一年間好き放題なことをさせた後、春の種まきの前に彼を殺し解体し、血や肉を大地に捧げてその年の豊作を祈ったという。選ばれるのは、ある家系であったり、精神的身体的不具者であったり、旅人であったりする。この犠牲者を仮王という。
 ある時、強情な人物が現れ、犠牲になることを拒否し、そのまま居座るどころか、自分の息子を後継者に据えて村を支配するようになった。これが王制の始まりだ、とフレーザーは主張する。
 何故こんな話をするかというと、今日が紀元節だからだ。記紀によれば初代神武天皇(カンヤマトイワレヒコ)の治績は詳しいが、二代から九代までの天皇はおくり名だけで、母が誰とも何の治績も記述されていない。そこでこの時代を欠史八代という。
 ところが十代崇神天皇となると。たちまち様々なエピソードが現れる。元々天理の石上神社にいたアマテラスが色々あって、とうとう伊勢に落ち着いたのもこの天皇の代。しばしば卑弥呼の墓に比定される箸墓古墳の主と云われるモモソ姫と大和の大物主との関係があったのも、この天皇の代。
 つまり崇神天皇から強力で永続的な天皇(大王)が現れたと考えられる。上で挙げたフレーザーの説によれば、崇神が王制の始まりである強情な人物で、sの前の八人は仮王であったとすれば、欠史八代は説明できる。そうすれば、神武も怪しいもので、崇神=神武という仮説も成り立つ。これが戦後話題になった江上波夫の北方騎馬民族簒奪王朝説である。
 そう考えれば、紀元節2月11日というのは、何の根拠もないことになる。そういえば、この日は日本最大の右翼団体日本会議にとって極めて重要な日だ。その日に名誉総裁アベ晋三はのんびりオリンピック見物。ということは本人も紀元節神話をあまり信用していないというkとか。
(18/02/11)

 あのアホの張本が、白鵬1047勝について、翌日のスポーツ紙で一面に取り上げたのが一社しかなかったのに腹を立てて、「同じ民族なんだから・・・・」とクレーム。要するにもっと尊敬を払えということだ。で、筆者は相撲にはあんまり関心はないので、白鵬1047勝の歴史的意義をあれこれ言う立場にはないが、張本の云う「同じ民族」なんだから、という言葉に若干引っかかるものがある。
 民族という言葉には広義と狭義がある。広義で云えば、白鵬のモンゴルも張本の朝鮮族も、日本人も同じモンゴロイドで、使う言語もアルタイ語系だ。その意味では張本の意見は正しい。これが広義の民族である。 しかし狭義ではそうはいかない。モンゴルはれっきとした単一民族である。又朝鮮族もツングース系騎馬民族ということははっきりしている。しかしツングースとモンゴルとは一体ではない。ある時に分かれたのだろうが、言語・文化も異なる発展を遂げている。
 一方日本人はもっとややこしい。原日本人として挙げられるのは縄文人だが、縄文人の由来そのものが分からないのである。柳田国男以来、南方由来説が定説とされてきたが、縄文人の形体的特質が明らかになるにつれて、南方=東南アジアか中国南部には、これに比定できる民族が見当たらなくなったのである。その後の弥生系民族は中国南部からの難民又は亡命者が主で、中国の混乱とは無関係だったモンゴル・ツングース系民族が、わざわざ列島にやってくるとも思えない。
 一方古事記では、スサノオが機を織っているアマテラスに向って、馬の皮を投げつけるシーンがある。これなどアマテラス一族が騎馬民族で、天孫はモンゴル高原から天下ったように見える。しかしだ、古事記の冒頭にあるのは、オノコロ島における国生み伝説である。これは明らかに海洋民族の説話だ。騎馬民族を前提とするアマテラスースサノオ天孫降臨伝説とは全く矛盾するのである。それどころか、古事記説話には後世に他所から説話をパクったと考えられる部分がいくつもある。
 つまり日本人というのは、一部ネトウヨが云うような単一民族ではなく、数種の民族が大陸縁辺の列島に辿り着いて、そこで共存を図った結果なのである。だから国籍論など実にくだらないし、同一民族にこだわるのも意味はない。張本の頭には「同じ民族」だからという単一民族説がある。しかし日本の歴史を見ると、他文化・他民族を許容してきている。重要なことは多様性を認めることである。これ以外に日本人が今後生きていく道はないだろう。
(17/07/23)

 このほど「沖ノ島」はじめ8件の宗教遺跡が一括して、世界遺産に登録されました。それが妥当かどうかは別にして、筆者は数年前から「沖ノ島」が古事記で云う「オノコロ島」ではなかったか、と考えています。「オノコロ島」については兵庫県淡路島がそれではないかという説が昔からあったのだが、これは殆ど根拠がない。古事記にアワシマとあったのが似ているというだけである。
 戦後沖ノ島で発掘調査が行われ、大量の弥生前期青銅器と土器が発見されました。当時の日本では銅は採掘されていないから、これらは外国特に中国由来のものは明らかです。では当時の中国を含む東アジア情勢はどうだったでしょうか?
 中国は戦国乱世の真っただ中。特に日本で弥生時代が始まったBC2300年頃は、秦が周辺諸国を亡ぼし、領土を拡大していった。当然中国内部からは大量の難民・亡命者が発生したはずです。その内、江南地方の亡命者が沖ノ島に辿り着き、ロビンソンクルーソー的生活を送った。その後生活も安定し、人口も増えたので対岸の北九州に植民し、一地域を支配するようになった。これが筑紫王朝です。但し南九州には先住の隼人族がいたり、東の瀬戸内方面には別ルートからやってきた出雲族の片割がいたりしてそれ以上、領土を拡大できなかった。
 何故筑紫族が中国江南地方難民の子孫かと云うと、九州北部出身者に限って、「砂」という言葉を「シャ」と発音するのである。例えば「砂岩」は、我々普のヤマト人なら「サガン」と発音する。しかし北九州人に懸ると「シャガン」になってしまう。「中細砂(チュウサイサ」はチュウシャイシャになってしまうのである。
 さて過日、あるテレビ番組を見ていると、「砂」を国別でどう発音するかというのをやっていた。ここでびっくりしたのは、確か台湾人は「サー」と発音していたが、中国江南人は顕かに「シャー」と発音していたのである。これで筆者の云う、筑紫王朝中国江南地方起源が証明された。
(17/07/13)

  縄文末から弥生時代初期・・・つまり中国戦国動乱期・・・に、大陸から渡ってきた難民・亡命者は北九州だけでしょうか?実は他にも何か所もあります。その中で特に重要なのは「出雲」ですが、他にも「コシの国」とか北陸地方が挙げられます。
 これらの地域に共通するのは「鉄」です。青銅と鉄の製造技術、弥生初期に、ほぼ同時に日本に伝わったと云われます。スサノオが出雲にやってきたのは、筆者は概ね2200~2300年ぐらい前と考えています。そのときには、既に出雲に「ヤマタ族」という鉄器集団が来ていました。スサノオは少し遅れてやって来たのです。
 筆者は鉄や金属精錬に関連する言葉として「イ」に注目しています。「イ」が付く地名は、西日本では「イズモ」「イヒカワ」、北陸では「イヅナ」「イイデ」などがあります。新潟の弥彦神社のヤはイヤ
の転じたものと考えられます。いずれも鉄の採掘・精錬に関係しています。この製鉄民族が近畿東海地方に南下して、我々が知っている弥生文化を作ったというのが、筆者の考え方です。
 古事記という書物の内特に神代紀は、各地の伝説を寄せ集めたもので、中身は矛盾だらけです。しかし重要なこのは出雲神話が全体の2/3位を占めることです。これに比べ筑紫や尾張が登場することは殆どありません。筑紫王朝はヤマトと異なる、独自の発展を遂げたのでしょう。
(17/07/15)