伝統のまやかし


横井技術士事務所
技術士 横井和夫


 降ってわいたような大相撲不祥事。これは他でもありません。貴乃花部屋での出来事。理事選前に貴乃花によって廃業させられた元力士が、協会に対し行った地位確認訴訟で、後輩力士が貴乃花部屋での暴行どころか、自身も師匠の貴乃花に暴行を受けたと証言。貴乃花側はこれを事実無根と否定するが、法廷での宣誓供述だから持つ意味は大きい。一般の力士は国税庁の佐川ほど鉄面皮ではない。
 果たしてこれが貴乃花の云うで「伝統」「相撲道」の実態なのか?
(18/02/05)

 理事選前の不気味な高笑いに比べ、選挙後は憮然とした表情の貴乃花。何があったのでしょうか?それもそのはず理事選前には阿武松に10票、あわよくば自分に2票か3票、計12〜3票と踏んでいたのに、蓋を開けると阿武松に8票自分に2票の計10票しか集まらなかった。2〜3票が何処かに逃げたのだ。これでは三月の理事長選も危うい。理事長選に出馬すべきか否か、迷うtころだ。
 昨年の日馬富士暴行事件以来、貴乃花は周辺に自分の所信をメールで表明している。それを見ると、彼の主張には・・・自分は毘沙門天(炎)の生まれ変わりというのは御愛嬌として・・・「伝統」、「相撲道」、「大義」とか言う大時代な言葉が頻繁に使われている。
例えば昨年12/03に本稿で触れたメールでは角道、報道並びに日本を取り戻す・・・「相撲の精髄」をあきらかにして日本の国体と皇室をお守りすることが自分の大義・本心である」てなことを言っている。
 また、初場所後にも理事選出馬に向けて各方面あてに出したメールにも、「古き伝統を取り戻すために改革を行う」、「日本の伝統を守ることが相撲道の目的であり、全力士の義務である」という意味に変わった。ここで初めて「改革」という言葉が出てきたが、全体としてはたいしたことはなく、むしろ伝統復活に力点をおいている。
 ところが理事選直前の出馬表明では、「伝統」とか「相撲道」といった大時代な言葉は消え去り、やたら「改革」が強調されるようになった。この表明は大きく前半と後半に分かれる。前半では「現在の相撲協会は都合の悪いことは隠し、問題から逃げようとする」と現執行部を非難し、後半では[大相撲は誰のものか」とし公益法人である相撲協会の公益性を盾にとって、開かれた誰でも話せる開かれた協会に改革する、と主張する。ここで初めて「公益性」という言葉が出てきた。毘沙門天と公益性がどう結びつくのかよくわからない。
 さて最後の選挙前出馬表明は、これまでのような過激な言葉はなく、誰でもが受け入れられやすい言葉が並んでいる。誰かテレビキャスターが、これは正論だといったらしいが、確かに一つ一つの言葉には反論できない。だから正論といえば正論だ。これは果たしく貴乃花本人が書いたものでしょうか?何となく貴ノ岩事件以降、テレビのワイドショーなんかで無責任な評論家やコメンテーターが発する、いかにも正論のような言葉を、誰かゴーストライターが拾い集めてつないではないかという感じがする。鈴木宗男も同じようなことを言っていた。
1、
協会の隠蔽体質、逃避傾向
 先ず貴ノ岩事件から見てみよう。貴乃花の協会理事解任理由は、貴ノ岩事件の顛末を協会に報告せず、先に鳥取県警に被害届をだし、更に長期にわたって協会からの事情聴取にも応じなかったことである。これに対し貴乃花派(=協会批判派)は、先に協会に報告すれば事件をもみ消される恐れがあったからだ、と推測する。しかしこれは論理的におかしな話である。そもそも傷害事件における被害届提出は本人またはその代理人が行うものであり、第三者である日本相撲協会にはなんのかかわりもない。つまり協会がもみ消そうとしても、それを無視して被害届」を出せばよいのである。貴ノ岩側としては、医師の診断書を添えて休場届を協会に出せばよい。どっちが先でもよい。加害者である日馬富士他」の処分は起訴後という流れになるでしょう。従って協会隠蔽説というのは根拠にならない。また昨年暮れに行われた危機管理委員会の聞き取り調査では「自分の弟子だから明らかにした」と述べている。ということは、他の部屋の力士が被害者だったら握りつぶしていた、という意味に捉えられる。
 それより協会役員が召喚状を以て部屋に行っても、当人は全く無視するのみ。それどころかたまに出てくると、役員を無視して車で何処かへ出ていってしまう。これは外形だけから見ると面倒からの逃避行為にしか見えない。
 そして三年前の春日野部屋暴行事件。相撲協会の危機管理体制は、親方→危機管理部長→理事長→危機管理委員長の順に上がる。春日野はこのとき危機管理部長(貴乃花)、理事長(北の湖)には報告したと説明している。一方危機管理委員長の宗像弁護士は「そんな話聞いていない」と述べる。ということは、危機管理部長か理事長の間で握りつぶされたことになる。この点について貴乃花は一言も説明していない。つまり貴乃花にも隠蔽体質はあるのだ。
2、日本の伝統
 貴乃花がしきりに口にする言葉に「伝統」がある。例えば「伝統を守り」とか「、伝統を取り戻す」とかである。ところがこの「伝統」とは如何なるものか、さっぱり説明がない。伝統とは過去に起源を持ち、時代とともに人々によって継承されてきた文化である。貴乃花は相撲の起源を、ある時は「武術」「神事」といったり「勧進相撲」が起源と云ったりして一定しない。この三つの言葉はいわゆる奉納相撲に起源を持ち、村の男性によって受け継がれてきたもので、現在でいうアマチュア相撲の源流である。
 貴乃花(だけでなく一般の相撲ファン)も大相撲と相撲をごっちゃにしていると思われる。先に述べたアマチュア相撲がいわゆる「相撲」で、これはすでの国際化し(SUMO)、世界選手権まで行われている。大相撲というのは、江戸時代初期にこれが興業化したもの、つまりエンターテインメントなのである。貴乃花が神事と勘違いしている勧進相撲も、いわばショーであって宗教儀式とは程遠いものだったろう。これは現在の地方巡業に当たる。今でも地方従業の主催者を勧進元と呼ぶのは、その名残である。
 現在の大相撲の起源が江戸時代の大相撲なら、その本質はエンタメである。そうなら観客や贔屓筋が喜びそうなことは何でもやるのが当たり前。例えば貴乃花や原理主義的相撲ファンが忌み嫌う八百長など、江戸大相撲では当然で、観客などそれが当たり前と思って見ていたに違いない。現在問題になっている暴力行為も江戸時代なら当然だったはずだ。ということは、現在の大相撲はそっくり大相撲の伝統を守っていることになる
 しかし、こんな屁理屈に貴乃花が納得するはずがない。かれは彼独自の伝統感を持っているはずだ。それが何者か。彼自身が明確にしないから困るのだ。察するに「何物にもけがされない美しい日本の相撲」というのが、彼が理想とする伝統なのだろう。例えば、常陸山・双葉山時代、栃若時代、白鵬時代なのである。この時代には外人力士はいなかった。彼の目では、外人力士特にモンゴル勢が増えてきてから、土俵が荒れてきたように映るのだろう。その張本人が朝青龍であったり白鵬になるのである。しかし、先に挙げた彼が美しいと感じる時代にも、八百長や暴力はあったはずなのだ。なぜならこれらは江戸大相撲に既に起源を持つからである。ここに貴乃花の主張の矛盾がある。
 なお江戸時代の相撲社会というものはどういうものだったろうか?江戸時代は厳しい身分制社会で、武士だけでなく農町民も職業は全て世襲とされていた。一方力士という身分は存在しない。芸能人や僧侶・神官と同じく身分外である。力士の殆どは農村出身者である。つまり相撲社会は、身分制社会からはみ出したアウトローで構成されていたのだ。そういう社会は人間の欲望と力が露骨にぶつかり合うことになる。つまり伝統的な相撲社会は、貴乃花始め一部のファンが夢見る清廉な社会ではなく、ドロドロした欲望社会だったのである。
3、改革
 日本人はとかく「改革」という言葉が好きである。改革を唱えればそれは正義であり、それに反対したり従わなければ、守旧派(悪)とされる。現在のマスコミ論調、特に貴乃花擁護派は、貴乃花=改革派=正義、一方対する相撲協会は守旧派=悪という図式で全てを切りとろうとする。改革もいろいろあって、中にはコイズミ改革のようにやらない方が良かったという改革も多い。特に経団連の意を受け、大蔵=財務省が口先を出してきていた教育改革こそ諸悪の根源。
 それは別にして、果たして貴乃花が改革派なら、具体的にどのような改革をしようとするのか?あるいはしてきたのか?貴乃花=改革派という等式が出てきたのは、貴ノ岩事件が発覚して間もないころ、昨年の11月頃だろう。言い出したのは相撲の専門家ではなく、素人の芸能人やその周辺のマスコミ。彼がやっと改革を公にしたのは、やっと今年二月の理事選直前。その内容も抽象的な文言の羅列で、中身や具体性は全くない。本当の改革派なら、現在の相撲協会も問題に切り込み、その構造を批判し、それに基づいて新しい方策、モデルを提示する。これを実行することによって、組織はより高いステージに到達する。これが弁証法で言うアウフヘーヴェンである。小池百合子はこの意味を全く理解せず、性質の異なるものが一緒になることがそうだと思っていたらしい。
 さて大相撲は伝統格式を重んじるとはいえ、本質は大衆相手のエンターテインメントである。従って大衆の要望に応え、様々な改革を続けて来なければならないのは当然である。例えば戦後のテレビ中継に対応するために四本柱を撤去して大鉄傘にするとか、式守伊之助の誤審判定事件を契機に写真判定を取り入れたとか、幕内力士の数を減らして取り組みのスピードアップを図るとか、場所の前半に好取組をもってきて注目度を高めるとかである。外人力士を認めたのは大改革の一つだろう。公益法人化以後も様々な取り組みをしてきたはずだ(筆者は相撲には興味がないのでよくわからないが)。しなければ監督官庁から注文がついてくる。しかし、ある親方(ネット情情報)は、貴乃花は八年間理事をやってきたが、理事会ではいつもダンマリで、具体的な改革案を主張したことはなかったという。
 彼の云う改革とは、我々が考える「改革」ではなく、初場所後に各所に配布された声明の「古き伝統を取り戻すために改革を行う」、「日本の伝統を守ることが相撲道の目的であり、全力士の義務である」が本音であり、理事選前の改革声明は、どちらかというとマスコミ向けプロパガンダである。「古き伝統」とは何を意味するのか、さっぱり分からないが、要するにこれまで協会が進めてきた諸改革を全てひっくり返すという意味と取らざるを得ない。そしてその本命は、外人力士特にモンゴル系の追放だろう。そうならそうと勿体ぶらずにそういえばよいのだ。何となくオバマ改革をすべてひっくりかえそうとするトランプのようなものだ。
(18/02/15)


 大相撲初場所はグルジア出身の栃ノ心が優勝して終わり。グルジアがどのあたりにあるのかは知っていましたが、グルジア人とは民族的に何に属するのかよくわからなかった。そこでウイキで検索してみると、祖先はコルキス人だという。ではコルキス人は何者かというとよくわからない。ペルシャとの関係もあるらしいから、おそらくコーカサス系アーリア人種の一部ではないかと思われる。ギリシア人の血も入っているかもしれない。 
 それはともかくテレビのワイドショーは、相変わらず角界暴力隠蔽体質騒ぎ。登場する評論家や専門家は口を揃えて、この際膿を出し切り古い暴力体質を改めて、角界を改革しなければならないと説く。御説御尤もだが具体的にどうすればよいのかが無い。
 上記の角界体質の根本的原因は、独特の部屋制度にある。これに最も似ているのが、江戸時代の大名屋敷である。これは一つの自己完結社会で治外法権でもある。内部で不祥事が起こっても、内々ですませてしまう。今と違って警察(奉行所)も手出しができない。屋敷の中で何が起こっているか、外部の者には何もわからないのである。
 実際現在の相撲部屋は独立した存在で、協会と云えども簡単に立ち入りは出来ない。その証拠が貴乃花呼び出し騒ぎ。協会幹部が貴乃花部屋の前まで行くが、中には入れない。つまり協会と云えども部屋の内部について把握するには限度があるということである。
 ではこのような部屋制度が何時頃から始まったか。相撲が興業化するのは江戸時代初期だが、始めからこのような制度があったとは考え難い。おそらくは農村地帯のしきたりをそのまま持ってきたのだろう。その後歌舞伎などの芸能の影響もあって、様々な伝統様式・しきたりが形成された。化政期以後武家社会との繋がりが出来て、そn影響を受けるようになった。部屋単位の縦割り社会など、武家社会そのものである。
 このような封建閉鎖社会では、どうしても長幼上下関係が形成され、その秩序維持が何よりも重要視される。そのためには暴力も容認されるのである。ところが現在の世論はその事実を直視せず、近代社会の価値観を当てはめようとする。その典型が先に挙げた暴力追放角界改革論である。
 この結果一時的には効果は出るかもしれない。しかし問題の背景・・・つまり部屋制度という封建制・・・が残っている限り、いずれ必ず同じことが起きるだろう。根本的な解決策は部屋制度の廃止だが、それでは現在の大相撲そのものが成り立たない。協会どころか一般力士からも反発をくらう。ということで、相撲界が現在の形態を守る限り、解決策は無い、というのが筆者の結論だ。なお、一部には現在の協会執行部そのものを批判する向きもあるが、八角を辞めさせたところで、何にも変わらないのは明らかである。
(18/01/30)

 日本相撲協会評議員会で、貴乃花に対する処分が決定。理事降格だけだから大甘処分だ。巡業部長解任と云っても昨年10月以来、巡業部長の職務を放棄しているのだから当たり前。現実には何も変わっていないのである。昨年一連のこの騒動を見ると、あるコメンテーターが言っていた”普通の会社なら”という基準を当てはめるとどうなるか。企業執行役員の中で貴乃花のような行動をとるものがいれば、企業として統率がとれなくなる。つまり貴乃花は解任どころか解雇相当である
 例えば協会の協力要請を無視したり、役員が部屋まで訪れているのにそれを無視して車を発進したり、といった無礼行為である。貴乃花は相撲道を説く。相撲道の中には礼節がある。みずから礼節うを欠く行動をとっている。これを容認すれば協会は組織として成り立たなくなる。
 ところが現実は有耶無耶処分だ。これの最大の弊害はマスコミが騒ぎ出す余地を作ってしまうことである。似たようなケースは幾らでもあるが、例えば太平洋戦争中のインパール作戦である。この責任は司令官の牟田口中将にあるのは明らかなのだが、軍首脳は東条首相、上級司令官の河辺正三と牟田口の関係をおもんばかると同時に、それまでマスコミにインパールでは連戦連勝だとフェイクニュースを流し続けたものだかr、結果として三万もの死傷者を出してしまった。牟田口やその片棒担ぎの参謀達で責任をとったものはいない。この結果が日本帝国陸軍崩壊の原因になっているのである。
 何事も最初が肝心。千里の堤防も蟻の一穴からだ。貴乃花処分がその一穴にならなければ幸いだが。
(18/01/04)

 例の貴ノ岩騒動も年内はひとまず決着。この騒ぎの特徴は本人達より、外野・・・無責任マスコミ、エセ専門家・・・の方が声が大きくうるさかったこと。当たり前だが渦中の貴乃花がダンマリを決め込み、貴ノ岩も入院と称して行方不明。これでは当人達の声が聞こえてくるはずがない。外野発雑音の中で特にうるさかったのが1)日本相撲界の古い体質、2)日本相撲協会の危機管理能力(ガバナンス)不足の2点である。
1)日本相撲界の古い体質
 今回の暴行事件があたかも相撲界の封建的縦系社会で必然的に起こったかのような解釈。その背景には相撲界特有の伝統・慣習があるとする。どちらかというと、左派か保守でも改革派というテリトリーに属する評論家に多い。
 この事件が日本人だけで、部屋の中で起こったのならそう言えるが、実際は部屋とは無関係に、モンゴル人同士の中で起こったのである。しかも最年長の白鵬でも在日年数は10数年に過ぎない。たったこれだけの期間で少なくとも400年以上に及ぶ日本相撲の伝統・慣習を身に着けられるだろうか?むしろ事件の背景にあるのはモンゴルのそれである。
 モンゴル人は北方ユーラシア騎馬民族である。騎馬民族は農耕民と違って一族の結束力を何よりも重視する。そうしなければ大陸の厳しい環境で生き抜いていけないからだ。もし一族の結束を乱すようなことをすれば、厳しい制裁が待っている。貴ノ岩はそういう言動をしたのではないかと疑われる。無論だからと云って、どこでも自分たちの伝統が許されることはない。その伝統がその国の法律に違反しておれば、当然責任は問われる。その結果が略式であるが鳥取地検による起訴である。
 なお、週刊誌やネットで、事件中に交わされた会話がまことしやかに流されているが、会話は全てモンゴル語で行われたはずで日本人に分かるはずがない。従て、週刊誌ネタは全て日本人記者による捏造と考えてよい。
2)日本相撲協会の危機管理能力不足
 これは訳知り顔の経営コンサルタントとかその類の人種から発生する。テレビなどで出てくる評論家がよく口にするのが「一般企業では到底考えられない」とか「普通の会社では・・・」とかいう、いかにも日本相撲協会が世間一般から遅れているか、逆に一般企業が進んでいるかを強調するフレーズであるその理由は相撲協会は事件後数日経って、日刊スポーツに記事が載るという情報が入ってから慌てて事件を公表したことである。。しかし彼らの云う「一般企業」「普通の会社」が日本相撲協会に比べ、そんなに進んでいるでしょうか?
 情報公開という点では、長年の負債を隠していた東芝とか、10年以上にわたって検査データを捏造していた神戸製鋼、データ捏造を経営者が指示していた東レや三菱マテリアル、不正検査を見逃してきたニッサン,、相も変わらず談合を繰り返すゼネコン。これらは全て内部告発で、マスコミや捜査当局から内々に打診があって、それで慌てて公表に踏み切ったに過ぎない。やったことは日本相撲協会となんら変わりない。
 更にスーダンPKO日報を隠していた防衛省、森友・加計学園問題で相変わらずダンマリを決め込む財務省や文部科学省などは、殆ど貴乃花状態である。それだけではない、女子社員を過労自殺に追い込んだ電通の体質は、モンゴル会、いや日本相撲界より悪質である。
 ここにみられるのは日本企業界の経営体質劣化・ブラック化である。上で挙げた企業はみんな日本経団連加盟会社である。ということは、日本経団連こそ日本最大のブラック団体ということになる。
 これが何時頃から始まったかというと、コイズミ改革以来、特に宮内・竹中民営化委員会の影響が大きい。そしてこれは12年アベ政権誕生で更に強化された。その代わり様々な利権も復活した。日本をブラック化する。これがアベ晋三の掲げる「日本を取り戻す」の実態である。
 なお、貴乃花部屋でのシゴキ・ブラックの実態が次第に明らかになりつつあります。
(17/12/30)

 本年末期を騒がせた貴ノ岩騒動も、貴乃花処分で一応年内は決着。多分年明けには又何か始まるでしょう。筆者はこの騒動は、貴乃花と白鵬の確執・怨恨が底流にあると考えて居ます。貴ノ岩が負傷した後、彼からいきさつを聞いた貴乃花はこれを奇貨と捉え、これをチャンスにニックキ白鵬を潰しあわよくば汚らわしいモンゴル勢を追放出来ると踏んだのだろう。そのためには事件を急いで協会に報告しては駄目だ。何故なら急ぐと事件はさっさと片付くから白鵬にたいするダメージが小さくなる。出来るだけ遅らせて世論がアンチモンゴルに傾くのを待つべきだ。その結果が理由がよくわからないダンマリ戦術。
 そして乗ってきたのが週刊新潮と文春、それに日刊スポーツとTBS。彼らが描いたのは日本相撲協会を悪玉ブラック団体とし、貴乃花をそれに立ち向かう孤高の剣士というパターン。殆どン10年前の安物紙芝居の図式である。しかし最近の、本を読まない漢字を知らないネット世代には、結構受けるのである。おそらく貴乃花が描く将来の相撲は、こういう世代をターゲットにしたものだろう。多分これはアベ晋三と狙いは共通だ。しかしその目論見は今のところ外れた。つまり時間稼ぎという作戦が逆効果になってしまった。時間というものは、ある時は味方してくれるが、逆になることもある例である。
 全体として感じるのは、貴乃花の後ろに誰かがいて、それが画をかいて、それに貴乃花が載せられているというパターン。その誰かとはわかりませんが、例えば選挙に落ちて現在失業中のやめ検弁護士など。彼らにとって、今回の騒動ほど美味しいネタはありません。
 なお、年明けには貴乃花側から、地位確認訴訟とか貴ノ岩による民事訴訟などの一連の動きも予想されます。二月の理事選までいろいろあるでしょう。
(17/12/29)

 最初はただの傷害事件だった。事件発覚後の被害者(いわずと知れた貴ノ岩)の傷口写真を見ても、テレビによく出る元裁判官にして現国際弁護士は、この程度では裁判では軽傷扱いです、と云っていた。また、事件直後の医師の診断書でも、稽古には差し付かいないと書いてあった。つまり大した事件ではなかったのである。
 師匠にして実質上の保護者(二十超えて保護者もないものだが)である貴乃花が、鳥取県警に被害届を出したのは事件後1週間もたってからだ。鳥取県警から相撲協会に連絡が入ったのがその頃。そしてそれを日刊スポーツが捉えて記事にすると連絡して、相撲協会は慌てて危機管理委員会を立ち上げた。
 その遅れをマスコミは非難するが、協会だって力士一人ひとりに見張りを付けるわけにはいかない。普通なら貴乃花が警察に被害届を出す前に協会に報告すべきだ。ところが一部マスコミは協会に出しても握りつぶされるからと説明する。しかしことは刑事事件だから握りつぶしなどありえない。そしてその後貴ノ岩は行方不明。
 そして事態は一転、マスコミの食い物となった。事件からほぼ一か月後ネットで、ある関係者から貴ノ岩の容態について、やれ耳が聞こえなくなったとか、精神障害もあるなどという未確認情報が流れるようになった。一か月経って傷が内面に深く浸透していったというわけだ。
 一般に外傷は回復が早い。貴ノ岩はまだ20代だからあの程度の怪我なら一週間もたてば回復してしまう。それがひと月も経ってから容態が急変し、精神的にも不安定だ、外部にも見せられない、などと云う報道。こんなもの信じられるでしょうか?医学的にはまずありえないことです。
 ずばり貴ノ岩は何処かに閉じ込められているのである。つまり刑法的には貴乃花(とその取り巻き)による逮捕監禁容疑が生じる。その取り巻きとは、京都における最大のタニマチである竜宮神社神主と、炎の行者である池口某である。このようないかがわしい宗教家と称する宗教俗物にとって、貴乃花のような単細胞人間は、とっておきの獲物なのだ。
 この程度ならだれでも判る。問題はこれから先。事件は何時の間にか傷害事件から、貴乃花vs白鵬の対立へ、更に貴乃花+支持者vs日本相撲協会の対立へとことが拡大してしまった。その原因は貴乃花の対白鵬遺恨交じりのだんまり戦術、そして旗を振ったのが、無責任のマスコミと事象専門家と称するマスコミ芸者やゴロツキ達。中にはネトウヨも交じっている。この結果只の軽傷事件がとんでもないことになったのである。
 さてこの結末4はどうなるでしょう。協会の裁定は白鵬・鶴竜には厳重注意他二場所の減給、貴乃花に対しても何らかの処分を行う。さてこれで両者の関係が修復出来るでしょうか?男社会というのは意外に根を持つものである。白鵬・貴乃花の遺恨はこれで晴れることはない。何時かまた爆発する。しかもこの遺恨は両者の相撲観に関係しているから根が深い。
 例えば貴乃花は相撲の伝統的な型・様式に拘る伝統派(ただし型・様式が確立のは江戸時代中期、国技という概念やそれに伴う美学が生まれたのは明治大正期以降の底の浅い話)。よくテレビに出てくる元NHK相撲解説委員のような化石爺さんなんかは、貴乃花派でやたら相撲の美学・横綱の品位を強調する。しかし相撲の美学や横綱の品位とは何者か、というとさっぱりわからない。かつて朝青龍問題の時も、横綱の品位という言葉が乱れ飛んだが、誰も具体的には説明できていない。ほんの一握りの好事家だけがわかっているのである。
 逆に白鵬はどうか。彼はもともと相撲の優等生・模範生だったのだ。それがあるときから取り口が荒くなった。それを化石爺さん達が美学がないとか品位にかけるとか言い出して、今回の件でマスコミによって最大のヒールになってしまった。何故そうなったかは知らないが、ある時から相撲に対する考え方が変わったのではないか?つまり横綱といえども受けだけでは駄目だ、積極的に勝ちに行くべきだ。そのための技も伝統にとらわれず臨機応変に行くべきだ。物言いも、実際に相撲をとっている力士に発言権がないのはおかしい。野球でもラグビーでも審判の判定が不服のときはまず選手がアピールする。但し審判の裁定には従う。つまり白鵬流は相撲を格闘技スポーツとして捉える。
 かつて高度成長期やその後の一時期の企業管理職は、部下から上がってきて案件を受けて待てばよいだけだった。主な仕事は社内の調整とか内部管理。ところが80年代以降の円高メガコンペチション時代ではこんな管理職は不要。その結果この種の人間は次々とクビになった。国際化の時代では管理職といえども積極的に前に出て、仕事を取ってくるとか業界情報を仕入れてくるとかの動きが要求されるようになった。
 現代では相撲はSUMOとして全世界で行われている。貴乃花流の伝統派はこの流れに抗して、あくまで日本純血路線に舞い戻ろうとする。これは貴乃花の「・・・角道を取り戻す」という言葉、そしてアベ晋三の「日本を取り戻す」という言葉に通ずるのである。これでは日本相撲は世界の流れから孤立するばかりである。
 さて貴乃花流伝統回帰主義と白鵬流格闘技路線のどちらが勝利するでしょうか?筆者的にはどっちでもよいが、仮に貴乃花が理事長になって彼流の国体・皇室護持とか角道の回復なんてことを前面に持ち出されると、ほとんどの人は引いてしまうだろう。
(17/12/23)

昨日朝刊を開くと週刊現代の広告に「粘り腰貴乃花理事長、白鵬引退」というのがあった。中身は見ていないし見る気もないが、ココロは白鵬は「貴乃花理事長の下では相撲はとれん」と自ら引退するのではないか。
 さて問題はここから、白鵬引退が彼一人で済めばよいが、そんなことはない。モンゴル力士の結束力の固さは、今回の事件でも明らかになった。だから貴乃花は貴ノ岩を彼らから隔離する必要にかられたのだ。
 白鵬が引退すれば他のモンゴル力士も彼に追随する可能性が高い。現在幕内でモンゴル力士は8人だが、十両・幕下にもいるはずだ。幕内だけでも一斉に引退すれば、貴乃花理事長はこれで「日本を取り戻せた」と鼻高々だろうが、相撲協会には大痛手。横綱はあのポンコツ稀勢の里だけ。彼は初場所の成績如何では引退の可能性もある。豪栄道はじめ大関もろくなのがいない。
 こんな状態で大相撲を続けていけるでしょうか?貴乃花はモンゴル力士が裏で星のやり取りをやっていると思っているようだが、たった9人(日馬富士を含む)でそんなことをしたって、大勢に影響はない。
 もともと星のやり取りは、日本人力士の中で行われていたものだ。その始まりは分からないが、農耕社会特有の相互扶助=もたれあいから始まったとすれば、江戸時代にはすでにあったと考えてもおかしくはない。つまりこれが日本相撲の伝統・しきたりだったのだ。そこにハワイ勢始め日本の伝統・慣習を知らない外人力士が加わったから、土俵に緊張感が生まれた。
 一般に会社でも大学でもプロパー中心の純血主義組織は、必ず腐敗堕落を産み、ついには組織崩壊だ。今回の事件でモンゴル人追放からはじまって外人力士拒否ということになれば、将来日本大相撲は崩壊する。その時、モンゴル力士は朝青龍を筆頭に国際相撲リーグをやっているかもしれない。日本大相撲はガラパゴス島のイグアナ扱いだ。貴乃花理事長とは「一将功ナリテ万骨カレル」の類になるだろう。
 なお貴乃花とかアホのマスコミ一般人は、理事長が最高権力者と勘違いしているのが多い。北野タケシもその一人だろう。日本相撲協会はスポーツ文化庁所管の公益法人である。定款により、理事会の上に評議員会がある。理事会の議決は評議員会の承認が必要となる。更に重要事項は監督官庁の承認が必要となる。日本は法治国家である。誰も外部人気だけで、何でもできるわけではない。
(17/12/19)

 連日の貴乃花騒動。この騒動の周辺を見ていると幾つかのグループに分かれるようだ。一つは貴乃花びいきで協会批判派、これはテレビに多い。一つは中立又は貴乃花批判派、つまり協会派。これはスポーツ新聞系。以上は今回の日馬富士暴行事件に関するマスコミ関係だが、これに無関係に彼個人に近い関係者も二つに分かれる。一つは熱烈貴乃花支持者。これは彼の個人支持者が主体だが、中でも例の「炎の行者」と呼ばれる池口某が注目される。もう一つが彼の近親者。ズバリ言うと兄と母である。この二人は既に貴乃花とは絶縁状態にあり、母などはこれまで12年も会っていない、兄は二度と会いたくないとまでいう。この辺りに今回の貴乃花vs協会の対立を解くカギがありそうだ。
 事件後貴乃花が関係者に配ったメールというものがあってそこには「・・・毘沙門天(炎)の生まれ変わりとして・・・角道、報道並びに日本を取り戻す・・・「相撲の精髄」をあきらかにして日本の国体と皇室をお守りすることが自分の大義・本心である」などというような文面があった。
 普通世間ではこのようなことを云う人間を狂人という。完全に神がかっているとしか見えない。貴乃花には確か昔洗脳騒ぎがあった。性格的には真っ直ぐで人を疑うことをあまりしないのだろう。兄は「昔は仲がよかったのに、間に誰かが入ってきておかしくなった」と云う。誰かとはわからないが注目されるのが、毘沙門天(炎)という言葉。何故わぜわざ炎といれるのか?彼を精神的に乗っ取ったのが実は炎の行者こと池口のことではあるまいか?そもそも炎と毘沙門天に関係はない。毘沙門天は炎どころか、しばしば水の神様とされる。
 池口は真言宗の行者だが、真言宗にはしばしば怪しい教説が生まれる。代表的なものは立川流である。これは淫祠邪教として空海が日本導入を禁止した後期密教の流れを汲むもので、池口が何処かでこれを学んだとすれば、貴乃花のようなナイーブな人間がこれを信用してしまうのも不思議ではない。ということは協会で貴乃花が見せた対応は単なる確執ではなく、むしろ宗教的信念の現れ・・・誰かによる洗脳の結果・・、と云える。もともと筆者はこの池口という人物は怪しいいかさまペテン師の類と思っている。
 世の中の貴乃花ファンには申し訳ないが、彼は最早変人の域を超えて狂人の域に達している。彼をこのままいしておくと、彼本人だけでなく相撲協会あるいは日本相撲にも悪影響を与える。解雇すべきである。
(17/12/13)

 突然PCに不具合が生じ、それでHPの更新が遅れました。その間世間の話題は日馬富士ー貴乃花問題ばっかり。こんなの本当にどうでもよい話。森友学園問題に対する政府・官庁の誤魔化しに比べれば大したことはない。但しワタクシはこの問題の根には、貴乃花が相撲協会だけではなく、日本相撲界の独裁者になろうという野望が込められている気がする。
 なんでもそうだが、問題がこじれた時は原点に返れだ。ということは相撲の原点とは何か、ということなのだ。相撲の本質については、貴乃花は「武道」だと主張する。これが彼のガチンコ相撲の原点である。一方司馬遼太郎は「相撲は芸能だ」と解説する・・・確か昔の「NHK歴史探訪」。武道と芸能とでは大違いだが、現代相撲はその両者の特徴を持っており、その中間を行こうとしているのが今の相撲協会というわけだ。貴乃花にとってそのいい加減さが許せないから、こういう行動になったとと考えられる。
 筆者は相撲の原点は日本で稲作農業社会が成立した後に行われた占い(ウケイ)の一種と考えている。その後これは秋祭りでの祭り行事となった(奉納相撲又は村相撲)。平安期に朝廷が国家安穏豊作を祈って、相撲を節句ごとに行うようになった。
 一方中世で力を増したのが武士という階層である。武士の生業は戦闘である。当時の戦闘法の中に組打ちというものがある。これは武者が互い組み合って相手を倒す闘法である。これの鍛錬に有効だったのが相撲である。これは戦国期までは有効だった。これが貴乃花の相撲=武道論の原点である。
 しかし戦国も末期になると戦闘法も鉄砲が主流となって、組打ち法の出る幕はなくなった。そのため相撲は再び村相撲に回帰した。ところが江戸時代初期、各地で行われていた村芝居(奉納歌舞伎)などの大衆芸能が一斉に興行化された。相撲もその一つである。これまでは村で座を組んで祭り毎に神社を周り、神社や民衆から金を頂いていたのが、常設小屋を作って金を取って見せることが出来るようになったのである。そうなれば座は当然人口の多い都市、すなわち江戸・大阪・京都に向かう。相撲もそれに倣う。これが江戸相撲・大阪相撲の始まりである。
 芝居でもそうだが、平時における興行化は様式化を産む。これが現代でも残る歌舞伎や相撲界にみられる伝統・しきたりである。その起源はおそらくは元禄期以降、に文化文政期に様式化が進んだと思われる。と考えれば、相撲や歌舞伎社会の伝統・しきたりなど意外に起源は新しいのだ。
 かくて興行相撲は芸能化への道を進む。司馬遼太郎が言うのはこの段階のことである。ところが又相撲が武道化してしまった。それは明治維新で、明治天皇が相撲好きだったことと、軍部が兵士教育に相撲を取り入れ、それが一般教育にも取り入れられたことである。そのため戦後一時、GHQの指示で相撲も禁止されたが間もなく復活。さらに経済復興高度成長の過程で相撲ブーム。しかしこの段階の相撲は興行相撲要素が強かった。
 ところで武道というものの目的は敵を倒すことである。このためには手段を選ばない。その極端が特攻である。一方興行というものは、観客にアピールしなければならないから技芸を重視する。つまり技の競い合いである。これは例えば小兵が技を駆使して大兵を倒す。これが民衆の喝采を浴びる。 又歌舞伎始め日本人好みの芸能にも通じる。これが司馬遼太郎の相撲=芸能論の根拠になる。ところが両者の目的は矛盾する。武道相撲ならまず相手を倒すことが目的で倒してしまえばそれで終わりだ。一方技芸相撲は勝負もそうだが、観客を喜ばすことも大きな目的なのである。日本の近代相撲は、いいか悪いかは別にして、この両者を巧みに組み合わせてやってきたわけだ。戦後日本相撲を永続させてきたのは。基本的には司馬の云うように芸能的要素=技術重視主義だったろう。それは戦後の復興・経済成長を支えた日本工業技術の反映だろう。その技術重視主義が限界に達したのが80年代後半の円高グローバル不景気時代。技術より「力、根性路線」が発生する。その典型が貴乃花なのだ。
 今の貴乃花vs相撲協会の対立は、武道(特攻)相撲vs技芸相撲tの対立のように見える。しかしこの対立が協会内の勢力争いのようには見えない。協会内勢力では貴乃花は完全に孤立し勢力にはなりえていない。しかし何故ここまで頑なになれるのか、強気で出れるのか?それが疑問である。彼の背後にある力が存在しているのではあるまいか?その力とは何者かに興味ガ沸く。彼が標榜する武道=特攻相撲の支持層とは誰か?アベ晋三をはじめとする日本会議という右翼団体が背後にあると思えば納得できる。
(17/12/02)

 天皇退位制は与党は、一代限り特別立法で走るつもりだ。この場合次の天皇が同様のことを持ち出せば、同じ騒ぎを延々と繰り返すことになる。ことの是非はともかく、何故与党特に自民保守派が一代限りにこだわったのは、元号問題が絡んでいるからである。この問題の起源は古く、戦後間も無く始まり、その後も国会等で議論されたことがあったが、いずれも保守派の抵抗で潰され、昭和何年だかに「元号法」が出来てしまった。今時、世界共通の西暦とは別に、独自元号を持つのは、日本を除けば北朝鮮ぐらいだ。これだけ見ても、この二国が如何に世界常識から隔絶しているかが、よくわかるのである。
 元号論者の言い分は次の2点である。
1 、元号は日本の伝統文化であって、これに西暦を持ち込むのは、日本人の生活になじまない。
 そもそも元号は、古代日本が中国に倣ったもので、固有の伝統文化ではない。今、一般庶民が元号を必要とするのは役所への提出書類ぐらいで、ケータイやスマホの契約書類は皆西暦だ。つまり、今の若者・・・これからの国民主役・・・は元号を必要としていないのである。
2、歴史的事実は、元号を使うから理解しやすいのであって、西暦では意味が伝わらない。
 これはある高名な歴史学者・・・多分京大名誉教授・・・の意見である。筆者はこれを聴いて、なんでこの名誉教授はこんなに頭がわるいのだろうか?と思った。元号でなければ物事の前後関係が理解できない頭では、国際的時系列で物事を考えられなくなる。第一、元号のないヨーロッパの学者は、元号なしで歴史的事象を十分理解している。
 むしろ共通時系列で考える方が、自国を相対化出来、その結果国際的視野が広がるのである。先に挙げた学者のように、自国元号主義によっておれば、結局は日本のガラパゴス化しかない。元号でしか、物事の順序や時代背景を理解できないようでは、その頭は小学生以下である。
(17/01/24)

 ’16年伊勢志摩サミットの幕開けはG7首脳の伊勢神宮参拝で始まった。これについてホストであるアベは「悠久の昔からの聖地で、その神聖性を感じてもらいたい」と、一人合点で、無学もの知らず成蹊裏口入学のアホ振りを明らかにしてくれた。
 そもそも伊勢信仰が流行りだしたのは江戸時代中期以降。これも信仰とは名ばかりで、実態は信仰に名を借りた物見遊山観光(所謂お伊勢参り)。誰か敏腕のプロデユーサーがいて、こういうイベントを考え出したのだろう。現代日本でもAKBを考え出すのがいると、たちまち似たようなのが出来るのと同じである。例の「弥次喜多道中」も、伊勢信仰に悪乗りしたわるふざけ小説。
 これがいきなり神聖化したのは、明治になって天皇が伊勢神宮に行幸してから*。それ以降毎年正月には天皇が行幸する習慣ができた。それが更に靖国信仰と並んで国家神道の中心になったのは、せいぜい大正から昭和になってからである。つまりアベの言う悠久の昔とは、たった100年足らずのことを言っているのだ。
 伊勢神宮の祭神は「天照大神」であるが、元々大和の石上神宮にいた。それが人皇10代崇神天皇のときに、大和の大物主に追い出され以後転々.。やっと落ち着いたのが伊勢の土地。なぜ伊勢になったのかよく判らないが、この背景には出雲と大和との確執・対立があったのではないか?。当時、大和は事実上出雲に支配されていたと思えば、全体の構図が理解出来る。伊勢は出雲の勢力が及ばない地域で、且つ大和に最も近い土地だった。
*何故明治天皇が伊勢神宮に行幸したのか?筆者はこのとき平田流神学が、政府や朝廷に深く浸透していたのではないかと考えている。平田流神学の祖は平田篤胤だが、彼は本居宣長の直弟子を自任していた。宣長は「古事記」を日本古代史の唯一のテクストとし、アマテラスをその主神とした。篤胤の養子の鉦胤なるものが、岩倉ら過激派貴族を通して朝廷に平田流を浸透させたのだろう。
(16/05/27)  

 諏訪大社の御柱祭で、氏子作業員が15mの柱から落下して死亡した事故が発生。6年前にも同様の死亡事故が発生している。更に今年は柱を斜面にすべり落とす際にやはり、作業員が巻き込まれて死亡した事故が発生している。労働安全法では3m以上の高所作業では安全帯の着用など、転落防止措置を「義務付けている。これを遵守しておれば転落事故は起こらなかったはずだ。単にやるべきことをやっていなかったのである。
 これらの事故は当然業務上過失致死だが、刑法上どう位置付けられるのでしょうか?特に今回の転落事故は、過去に同様事故があったにも拘わらず、作業環境を改善していなかったという点で悪質性が高い。
 この行事を建設工事と考えれば、労働安全管理者が誰か、と言う点が問題になる。諏訪大社が事業主体で、氏子社中が元請であれば死んだ氏子は下請けだ。昭和40年代までは、事故は下請け責任だったが49年か50年だかの最高裁判決で、元請責任が明確化された。つまり氏子代表はこの氏子の転落防止に責任を持っているのである。この線でいけば、氏子代表が上記容疑で逮捕される可能性もある。
 では事業者責任はどうかというと、これがはなはだ曖昧なのである。例えば運動会で生徒に死亡事故が発生したとする。指導する教師には刑事責任が問われるケースがある。しかし、行事計画を容認した学校側や教育委員会は責任を問われない。典型的な例はJR福知山線脱線事故である。無理なダイヤを組み、未熟な運転手に運転を任せたJR西日本には責任は問われていない。従って、事業者である神社には責任は問われない可能性もある。
 しかし神事では、今回のように事業者と施工者とが一体化してしまっている場合が多い。その原因は、日本神道独特の氏子制度である。この制度は神社の伝統維持には有効かもしれないが、現在のような人口減少社会では維持出来ない。又事故が起こったとき、責任逃れは出来ない。それが嫌なら仏教やキリスト教のように、信者資格を解放すべきである。
 なお、御柱に登れるのは氏子だけの特権。そこから落ちるのも氏子の特権だから、一般見物人には無関係。ザマア見ろで終わりだ。また諏訪大社の祭神は、出雲の建御名方神。恐ろしい祟り神である(但しヤマトの建雷神との戦いに敗れて、信州まで逃げてきたのだから、大したことはないと云えばない)。
 こんなことを云えば諏訪明神には甚だ失礼だが、こういう行事をする上では、当然大社側は事故保険に入っていると思うが、その点はどうなんでしょうか?それをやっていないと、明神は刑事だけでなく、民事でも訴えられることになります。
(16/05/06)

 最近若者の演歌離れが進み、それに危機感を感じた杉良太郎ら演歌歌手が自民党議員に「このままでは日本の伝統が失われる」と支援を陳情。ここでも出てきたのが「日本の伝統」という言葉。さて、「演歌」は日本の伝統文化と云えるでしょうか?
 日本にも伝統歌謡はあった。古民謡、長唄・小唄・端唄などの俗曲である。ところがこれらは江戸時代を通じて多くの流派に分かれ、それぞれが競い合うものだから極端に技巧化が進んだ。その特徴は@音程の幅が広く、高音から低音或いはその逆の転換が急である、A延ばす、引っ張る、転がすなどの細かい技法がある。その習得が必要なため、素人でも師匠について習わなければ歌えなくなってしまった。
 さて明治維新。新政府はこれら伝統歌謡を、古い過去の遺物として、表舞台から排除した。その代わり導入したのが西洋音階である。これは音階の幅が狭く、変化も滑らかなので歌いやすい。政府はこれを小学唱歌や校歌・寮歌・軍歌に取り入れ、日本人の頭を切り替えてしまった。この延長線上として大正期には商業歌曲(歌謡曲)が生まれ、更にレコード・ラジオなどの新媒体を通じて、所謂流行歌が生まれた。これらは殆どが西洋音階をベースに作られている。
 戦後、戦時中は禁止されていた西洋音楽が、どっと日本に押し寄せてきた。ジャズ、ロック、ラテン、イタリアカンツーネから、フランスシャンソン、果てはロシア民謡まで何でもありになってしまった。これに危機感を抱いた船村徹という若い作曲家がいた。彼は西洋音階と、上で上げた日本の伝統歌唱技法を組み合わせて新しい歌謡曲を作ろうとした。船村演歌の誕生である。しかしその試みも、美空ひばりという逸材にめぐり合わなければ成功したかどうかわからない。ひばりー船村コンビによる新しい歌謡曲は大ヒットし、それに続く若い作曲家が続出した。この点だけでも女王ひばりの偉大さが判る。現在我々が演歌と認識している歌謡曲ジャンルはこのとき・・・・昭和30年代後半・・・に誕生したのである。つまり「演歌」とは日本伝統文化ではなく、人工的なもの、或いは当時の日本歌謡界へのアンチテーゼとして生まれたものと解釈したほうが良い。
 今回の演歌陳情には次の3点で問題がある。
1)演歌は大衆芸能の一つと言うことには異論はないだろう。大衆芸能とは芝居や講談・浪曲などと同様、権力とは距離を置き、独自に発展してきたものである。しばしば時の権力と対立し弾圧を受けてきた。それでもその都度息を吹き返してきた。今演歌の売り上げが減ったとっいって、それで演歌が終わるわけではない。
 一時的な落ち込みに慌てて、一度でも政治家に頭を下げると、政治家に付け込まれる隙を作るになる。大衆芸能の敗北である。
2)若者が演歌を嫌うのは今に始まったことではない。昔からそうなのだ。筆者自身、10代20代の若い頃には演歌など見向きもしなかった。それが演歌に親しみだしたのは30代後半以降、企業・社会の中堅世代になってからだ。何故か?この時期は人生の中で一番しんどい、つまりストレスが懸かる時期である。いまでは40代後半からだろう。このときストレス発散の受け皿になったのが、演歌である。演歌の売り上げが延びないのは、今の演歌界がこの世代のストレス解消受け皿に成り得ていないからである。
3)演歌復活に政治家に何を期待するのでしょうか?まさか学校音楽教材に演歌を入れろ、と言うのではあるまい。演歌のテーマの大部分を占めるのは、男女の不倫とか別離。それも大概は女性が被害者だ。男女同権の今時にこんなテーマが若い女性に受けるわけがない。それと「兄弟仁義」のようなアウトロー礼賛物。こんなもの時代遅れの典型である。若者が敬遠するのが当たり前。若者がこんなテーマを支持すれば、それこそ大問題だ。
 つまり演歌とは不道徳文化の体現者である。一方政治家は一般国民の範たるべき義務がある。ゲスの宮崎が政界を追われたのも、かれが一般道徳に反する行動を採ったからである。その政治家が不道徳文化を支援することこそ大矛盾。頼むほうも頼むほうだが、受けるほうも受けるほうだ。頭の悪さとKYの程度では、どっちもどっちという感がある。
(16/03/07)

 一昨日か、政府は本年度中での南極海調査捕鯨再開を発表。捕鯨基地下関を選挙区に持つアベ晋三の強い指示によるものだろう。捕鯨は日本の伝統文化であり、欧米の価値観を押し付けるべきではないという意見がある。果たしてそういえるでしょうか?日本も欧米も、捕鯨が盛んになったのは18世紀半ば以降。背景には欧米では産業革命、日本では近世初期からの農業革命で発生した、経済急拡大がある。それに伴って油需要が急増した。従来の植物油だけでは需要を満たせないので、それを補ったのが魚油や鯨油である。
 欧米の捕鯨は油を搾るだけ、日本は全てを加工して工芸品に利用している、これが文化であると言うのが伝統論者の主張。しかしこれは欧米が遠洋捕鯨、、日本が沿岸捕鯨だったという違いに過ぎない。しかも日本が沿岸捕鯨に特化したのは、徳川幕府による海禁(鎖国)政策の結果、日本の遠洋航海技術が廃れてしまったからである。もし幕府が海禁をしなければ、日本人も欧米と同じことをやっていたに違いない。なお、オーストラリアやNZが反対しているのは、南極海での調査捕鯨。IWCでも、日本にも近海捕鯨枠は認められている。工芸品を作るなら、それからだけでも十分である。わざわざ南極まで行くことはない。せめて捕鯨伝統文化論者も、この程度の知識は持っておいて発言して貰いたい。
 なお調査捕鯨といいながら、やっている手段は非科学的そのもの。あんなにノーベル賞学者を大勢だしている科学大国が、こんな稚拙なことしか出来ないなど、国際的物笑いの種だ。
(15/11/30)

 昨日野暮用で茨木に行って帰りに阪急電車に乗ると、斜め向かいにイスラムと思われるアベックがいた。女性は結構美人で日本人じゃないかと思ったが、言葉が聞き取れなかったので判らない。ところがこの二人いきなりスマホを取り出してツーショットの自撮り撮影。イスラムは偶像禁止だから自撮り写真などあり得ないと思っていたら、そうではないらしい。
 そういえば昔ある会社いたころ、大阪西区阿波座交差点の角にあるステーキハウスによく昼食に行ったが、常連客の中にインド人・・・ターバンを巻いていたからシーク教徒か・・・がいて、それが平気で牛肉のステーキ定食を食っていたのに驚いたことがある。インド人は確か牛肉は食べないはずだったが、戒律のない日本では自由になれるのだろう。
 日本でも昭和40年代の高度成長期では、特急列車にオッサンの団体がやってくると、いきなり上着やズボンを脱いでステテコ一丁になって酒盛りを始めたものだ。これもウルサイムラの戒律を離れた開放感からだろう。
 マスコミでは中国観光客の品の悪さをあげつらう記事があるが、これも同じ戒律からの開放感なのである。と言うことでいずれ中国人も日本人と同じように大人しくなる。
(15/06/11)

 和歌山のイルカ騒動は結局太地のイルカ漁撤退(JAZAのWAZA残留決定)で一件落着。サンケイなど未だ不満なようだが、日本のためにはこれでよい。たかがイルカ・・・和歌山の太地・・・ごときで日本が世界と喧嘩したり、国際的に孤立する必要はない。
 そもそもイルカ問題が起こってからこうなることなど、業界団体では判っていたことではないか?それを自分が責任を取りたくないものだから、引き伸ばし先送りしてきた結果がこの様だ。追い込み漁が不可能になるなら、それに替わる繁殖方法を考えるのは、業界・学会の義務。日本鯨類学会はそれを怠ってきたわけだから責任は大きい。
 又太地漁業の問題を大げさに取り上げる、サンケイのようなアホ新聞や間抜けネトウヨもいるが、太地は鯨やイルカだけで食っているわけではない。他に幾らでも収入源はある。何時までもそれを見つけ出せないでいた、地元漁民がボンクラなだけだ。まして国際的視野に立てず僅かな地元票だけを頼る仁杉(県知事)や二階(国会議員)などはアホボンクラの極みである。
 元々日本人は、何か問題が起こりそうだと、黙ってやり過ごす、解決を先送りする、あれこれ言い訳して解決を引き延ばすパターンが多い。その結果問題がこじれて、どうにもならなくなってから初めて対応を考えるパターンが多い。それどころか事前に警告を発すると、何処かからか、そこまでやらなくていいのじゃないとか、こんなことをやって上から起こられたらお前の責任だ、なんて野次まで飛んでくる。
 よく言われるのが、ドイツ人の医者は手術の前に考える。イギリス人は手術しながら考える。フランス人は手術してから考える。この伝で云うと、日本人は患者が死んでから考える、ということになる。日本のイルカ産業(水族館も含め)は当にそういう状況に追い込まれたわけだ。
 今後はイルカの国内繁殖を進めなくてはならない。そのためにやらなくてはならない第一の仕事は各水族館相互のイルカの交配を進めることである。このためには現存のイルカのDNAデータを共有し、水族館同士の適切な交配計画を作る必要がある。ところが出てくるのは、各水族館での困惑映像。これは当たり前だが、テレビ局のヤラセである。
 現在の水族館レベルではそれすら出来ていなかったのではないか?金儲けばっかり考えて何もやってこなかったツケだ。
 無論それだけでは近親交配という問題が残る。それを避けるには野生種の混入が必要だが、その手段として追い込み漁は駄目ということだ。むしろ誘い込み漁にシフトすべきである。太地はそのためのイルカ繁殖センターへ転換すればよい。それが可能になれば、和歌山県太地町は世界の動物保護団体から憎悪の目で見られることなく、尊敬されるだろう。何故こんな簡単なことを思いつかないのでしょうか?
(15/05/21)

 

 曾野綾子が産経新聞に出したコラム記事が、やれ人種差別だアパルトヘイトだと国際問題に発展している。コラムの主旨は今後の少子化で労働力が不足するから、その分を外国労働者を受け入れなければならない、ということ。そこまでは良かったのだが、その後にいきなり居住区は人種別に分けたほうが良い、と遣ったものだからこれが南アフリカ始めアフリカ各国のブーイングを招いてしまった。それがアメリカまで飛び火して外務省は大慌て。
 アパルトヘイトの定義をここで解説する気はないが、そもそも居住区差別がこれの原点だ。物書きなら、自分が書いたことの影響を考えなければならない。まして今のようなネット時代では、ある言動が直ちに世界中に拡散するのである。頭が悪いというか鈍感というか、センスは生きた化石だ。こんなことだから女というものは・・・・と言うことになるのである。
 それはともかく、この関連記事をネットで見ていると、曾野コラムに批判的な書き込みが多い中、肯定論もある。その代表的なものは日本のような単一民族社会に異質な民族は馴染まない、というものがあった。これは自民保守派をはじめ次世代tか右翼に強い考えだろう。
 日本人単一民族説が何時頃から始まったかと言うと、一つは19世紀末にヨーロッパで広まった民族主義の影響、次は大正・昭和期に広まった日本人優秀民族説、更にナチズムに汚染された昭和期の国体明徴運動が動機として挙げられるのでi一般化したのは20世紀初頭と考えられる。
 しかし日本人単一民族説は、今では人類学はじめ学問的には完全に否定されている。筆者は日本人とは様々な理由で日本列島にやってきた多民族の混淆によるハイブリッド民族と考えている。元々いた旧石器人は絶滅しているが、BP1万年に誕生したホモサピエンスに属する新人以降では、少なくとも4種類の民族が到来している。
 一番最初は縄文人である。二重まぶた短頭人である。約2500年前に北九州に弥生人と言うものが現れた。一重まぶた長頭人である。この時代中国大陸は戦国乱世時代。おそらくその混乱を避けて逃げてきたのだろう。次が3〜4世紀頃。日本に須恵器や金属採掘文明を伝えた民族。この時期、朝鮮半島も動乱時代。彼等はおそらく朝鮮半島から出雲にやってきた。彼等を出雲族と呼ぼう。これは日本各地に殖民し、一時はヤマトも制圧した。当時京都は出雲の植民地だったのだ。
 その次が南方から来た海洋民族で四国、紀伊半島、房総半島に殖民した。筆者はひょっとすると神武天皇はこれの出身ではないかと思っている。それはともかく大事なことは、日本人は異人種の集合体ながら永年の間に共通の価値観、同質性を獲得してきたのである。だから1500年以上に渉って、国家も国旗も無くても統一を保ってこられた。これは当に歴史的奇跡であり偉業なのである。曾野コラムや、日本人単一民族説はその偉業をぶち壊すことになりかねない。
(15/02/20)

  とうとう最高裁が夫婦別姓論議を憲法審査することになった。これが話題になったのは今から10年位前と思う。そのとき、自民党保守派議員を中心に、夫婦同姓は日本の伝統だ!などと言う主張が出てきた。同じ頃自民党が出した改憲案の中に家族制度の維持というのがあった。これも日本の伝統だ!という論法です。どちらも間違っています。
 まず夫婦同姓は、明治に民法を作るに当たって、フランス・ドイツの民法を丸写しにした結果で、日本の伝統でも何でもありません。単なる欧米文化の模倣なのです。第一、それまでは庶民階級は姓などを持っていない。武士階級でも女性は姓を持たない。
 そもそも日本の姓は律令時代に天皇から豪族・貴族に与えられたもの。平安期に武士階級が勝手に姓を名乗りだしたが、これは僭称に過ぎない。只、弁証法で曰く「量的変化は質的変化を招く」、又マルクス曰く「数は力なり」なのだ。それを氏姓命名権を独占していた藤原摂関家が、利権のために正当化しただけ。徳川だってもとを辿れば怪しいのである。
 家族制度も同じで、これも欧米の制度を丸写ししただけ。普通世間ではこれをサル真似という。
 このサル真似を一番やりたがるのが、一見民族主義を吹聴する自民保守派とか、石原次世代の党だろう。まあサル真似政党だ。
(15/02/19)

 昨日某BSトーク番組。テーマはIWCの決定と調査捕鯨の継続の有無。さてここで視聴者からの意見投稿があって、その代表例が読み上げられた。調査捕鯨継続賛成派は
1)食料資源確保のために鯨の生態把握は必要である。
 これは従来の日本政府の主張であり、投稿者は関係官庁とかその周辺からのサクラの疑いがある。また、鯨=生命体を資源と考えるのには、なにかナチズムに通低するものを感じる。
2)欧米社会の価値観を押し付けられることが問題。
 これは捕鯨とは無関係な単純反西欧主義である。要するに捕鯨は日本の伝統文化だから他人は口出しするな、と云いたいわけだ。ところが冷静に歴史を紐解くと、捕鯨特に今問題になっている南氷洋捕鯨は、日本の伝統でもなんでもなく、戦後食糧難解消のため始めた経済事業に過ぎない。それ以前の・・・江戸時代の・・・沿岸捕鯨にしろ、目的は鯨油とりで、鯨肉が一般市場に回ることは殆どなかった。一部の産地で消費されていたに過ぎない。この事実を無視して形だけ見て伝統々々と叫ぶのが、単純反西欧主義なのである。これを煽るのが、サンケイ*や新潮・文春などの保守系メデイア。かつて満州事変の後、反西欧思想をばら撒いて、日本を戦争に追い込んだ昭和マスコミの愚と罪の再来である。実はこれが現在日本で増えている保守主義・民族主義の現れである。
しかもそれは年寄りだけではなく、若者を虜にしている。現在最大の国際危険因子のイスラム過激主義も、その素は反西欧主義である。たかが鯨といって馬鹿にしてはならない。僅かな票を目当てに鯨鯨と云い続けていた政治家こそが、責任を持たなければならない。
*これを先頭に立ってやったのが当時の朝日。今それをしようとしているのがサンケイ。だからサンケイも朝日を批判出切る資格はない。
(14/09/22)

日本ではクジラやイルカを獲って食うが、中国・朝鮮ではこれ以外に犬も食らう。どちらが野蛮かはさておいて、今中国南部で犬肉祭というものが開かれている。全国の食肉業者が集まって、犬肉の即時販売(つまりホンモノの犬をその場で解体して、参加者に提供するものである)が行われている。勿論動物愛護団体もやってきて反対集会をするが、業者側は、これは中国伝統文化だ、と抗議を無視。それどころか、犬を法外な価格で反対者に売りつけたり、「家族の命は保障しないぞ、と脅迫メールを送る始末。行政も、我々は無関係だ、と知らぬ顔の半兵衛を決め込む。
 中国の犬食文化の伝統は非常に古く紀元前に遡る。漢建国の功臣で、鴻門の会で剣舞を披露して劉邦を救った氾カイの前職は犬殺し。史記に「牛刀をもって狗肉を割く」という言葉があるから、周代以前に犬食の習慣はあったと考えられる。では日本ではどうだったか?仏教が庶民に広まる迄は、結構やっていたのではないか。仲哀天皇死後の服喪令では、一切の肉食が禁止されているから、犬食も例外ではなかったと思われる。
 さてクジラ・イルカ漁を諸外国に批判されても、これは伝統文化だ(本音は選挙の票目当て)と、総理大臣や県知事が居直る日本に、中国・韓国犬食文化を批判する資格があるでしょうか?今後のサンケイ・週刊新潮その他反中・嫌韓メデイアや保守系言論の反応に興味がある。
 和歌山県知事は太地にしかないローカルアナクロ産業の肩を持つのではなく、これが無くなっても大丈夫な新産業の創成に力を注ぐべきである。そういうことをせずに古い因習に囚われているから、和歌山県は20代若者離県率日本一の汚名を蒙らなければならないのだ。いずれ和歌山県からは若者がいなくなり、残った年寄りも死んでしまうから、いずれ和歌山県はキツネやタヌキしかいなくなり、県自身が絶滅する。こんな将来の無い県に、国土強靱化法などで公共事業を注ぎ込む事など無駄の極み。いっそ南海トラフ地震で全滅してくれた方が、天下国家のためだ。
(14/06/22)

 調査捕鯨の国際司法裁判所裁定で日本敗北が決まると、アベはカンカンになって、担当者を怒鳴りつけたと云う。何故クジラ如きで一国の総理大臣がそこまでしゃかりきになるかと思えば、下関が調査捕鯨基地の一つだったのだ。下関はアベの選挙区、選挙地盤なのだ。つまり捕鯨は日本の伝統だとかナントカ、きれい事を並べているが、実態は自分の選挙にすり替えているだけだ。和歌山の仁杉も似たようなものだ。
 これを見てもアベシンゾーというのは、如何に肝っ玉の小さい小人物であるかが判る。あのタレ眼の細面の顔を見ても判るでしょう。
(14/04/06)

 昔、筆者が子供の頃の肉と言えばクジラだった。はっきりいって不味かった。なんとかクジラ生活から逃れたい、と言うのが、あの当時の日本人の願いだったのだ。そして苦難20年、食生活は次第に脱クジラとなり、70年代後半からの円高もあって、アメリカ・オーストラリアから安い牛肉が入るようになり、念願の脱クジラが達成された。万々歳なのである。
 今回国際司法裁判所で日本の南氷洋調査捕鯨に違法裁定が下された。これはIWCの様な、いい加減な機関の決定ではないから、日本もそれに従わざるを得ない(竹島問題もあるからね)。しかしこんなこと、始めから判っていたのではないか?
 そもそも戦後50年代から欧米各国は捕鯨から手を引いていた。
しかし日本は戦後食糧確保のかけ声の下に、南氷洋捕鯨に力を入れていた。ところがその間に日本人の食習慣はすっかり様変わり、クジラなしで十分やっていけるようになった。取得タンパク質トン当たりコストを考えると、捕鯨クジラより輸入牛肉の方が安い時代になったのである。だから捕鯨など止めたってかまわなくなったのだが、世の中、なかなか簡単には行かない。
 ある産業が出来ると、必ずそこに族という利益共同体が産まれる。それは直接生産者や、その周辺の間接業者、彼等を監督する役人、さらにそれらと利権を共有する政治家から構成される産官政複合体である。彼等の究極の目的は、この共同体を生存させるための政府予算を獲得することである。政治家はこの目的に沿って、議会活動を行う。従ってこの利益共同体がなにがしかの集票力がある限り、その産業の社会目的の有無に拘わらず族は継続する。これが捕鯨産業にも発生する。我が国捕鯨産業の場合、直接生産業者は、和歌山県太地町や岩手県陸前高田町など、幾つかの漁業地のみである。一見政治力として大したことはないように見えるが、彼等の結束力は固く、選挙特に地域選挙では無視出来ない力を持つ。
 世の中幾らクジラが要らなくなったといっても、捕鯨関係者は自己防衛のために、あくまで捕鯨継続を主張する。これをきっかけに政治力が介在する。政治家達は捕鯨産業の継続を確約して、それを政策に反映させようとする。ところが元々産業として成り立っていないのだから、まともな政策では捕鯨関係者の要求を正当化できない。ここに知恵のある官僚や学者がいて、「調査捕鯨」なるよく判らない文言を入れる。この結果、捕鯨は公共事業化するのである。ある産業の公共事業化こそは、その産業の堕落のはじまりであり、墓穴までの第一歩である。
 そして(公共事業である)調査捕鯨をダラダラ続けていたあげくが、今回の国際司法裁判所の裁定である。この裁定では日本は科学的調査と云いながら、何もやっておらず、商業捕鯨と何ら変わらないと指摘している。その根拠の中に、何時までやるのか、調査結果が計画にどう反映されているのか判らない、というのがある。当にこれこそが公共事業そのものなのである。本来これは日本人自身が・・・政府に対し・・・指摘しなければならなかったことだ。そもそも「調査捕鯨」の目的は、クジラ捕獲禁止による生態系変化の程度を調べる事であった。しかし科学的調査と言いつつ、その手法は実に非科学的なものだ。クジラを捕獲して開腹し、内容物を・・・主に目視で・・・調べる。それが終われば個体は焼却するのかと思えば、持って帰って市場に販売する。これじゃ商業捕鯨と何も変わらない、と言われても反論出来ない。現代生物学に於ける生態調査は、個体は捕獲せず長期観察によって、行動形態・方法・個体数の変化等を推計化するものである。であれば例えば人工衛星を使うとか、もっと科学的な方法を採用すべきであった。クジラの捕食実態が調べたければ、何も開腹まで必要ではない。麻酔銃で捕獲し超音波断層写真を撮るとか、或いは内視鏡で胃の内容物を調べ、GPSロガーを装着して海に戻せばよい。これだけでもクジラ捕獲技術の維持は出来る。そういう方法を考えるのが、学者の努めである。業者の下請けをやっておるようでは話しにならない。
 処がこういう話しが出ると、たちまちメデイアに踊るのは「日本の食文化を守れ(林農水相)」とか、「捕鯨は日本の伝統文化だ」とか、果ては東京のクジラレストランのオーナーの嘆き顔など、センチメンタル報道のオンパレード。クジラ料理は日本料理の中では何も位置づけられていない。従来の捕鯨は沿岸捕鯨が中心で、遠洋捕鯨が行われるようになったのは昭和になってから、南氷洋捕鯨に至っては戦後である。江戸時代には太平洋岸数カ所で沿岸捕鯨が行われていたが、捕獲量は一村辺り年間せいぜい数10頭。肉の大部分は搾られて油は油脂類に、絞りかすは肥料に、皮膚や髭・歯・骨は工芸品に利用。ほんの一部が地元で食用に供されたに過ぎない。つまり歴史的に見ても、鯨肉が日本の食生活を支えていたとは、とても云えないのである。クジラレストランのオーナーに至っては、アホとしか云いようがない。第一既に20年前に商用捕鯨は禁止になった。調査捕鯨だって何時まで続けられるか判らないのである。つまり材料が入ってこなくなるリスクは始めから判っていたはずだ。だったらさっさと商売替えするのが当たり前。それをやってこなかったのは自己責任。沿岸地区で鯨食をやっている地区があるが、この地区でクジラが獲れなくなったからと言って、いきなり餓死するわけでも何でもない。イルカ騒動の時に、捕鯨反対団体に抗議する民間団体のプラカードに「漁師さんの生活を守れ」というのがあったが、これこそ噴飯・アホ最大表現だ。太地の漁師がイルカだけで食っているわけではない。
 もし調査・商業捕鯨終了で生産者の生活に支障が出るのなら、それに変わる産業を育成するのが、行政であり、政治家の役割である。それを日本の農水行政や各県知事がサボってきただけの話しだ。また、生産者が産業構造変更を拒んできたのなら、それは自己責任である。
(14/04/02)