零戦と戦艦大和・・・・・これで日本は戦争に負けた


 アベがハワイに行っていますが、一体何しにいったのでしょうか?真珠湾犠牲者鎮魂のためだ、というがあれは戦争の結果である。戦争に犠牲はつきもの。そもそも真珠湾攻撃は、日本のだまし討ちなどという妄説がアメリカでは一般的だが、その二日前のアメリカによるハルノートが事実上の最後通牒。これが対日宣戦布告と受け止められても仕方がない。従って真珠湾攻撃は、奇襲であってもだまし討ちではない。奇襲されるのは、アホがただ油断しただけに過ぎない。
 それにも拘わらず、アベがペコペコハワイまで土下座しに行く理由はなにか?彼にしてみれば、戦後レジーム脱却の総仕上げと云いたいのだろう。戦後レジームの終了はアベ政権発足後、常に言っていたこと。
 では戦後レジームとじは何か?日本にとってこれは、サンフランシスコ講和条約体制である。戦後レジームを脱却したければ、サンフランシスコ体制を脱却しなければならない。しかし現実にはこんなものとっくの昔に潰れている。その典型が90年の東欧・ソ連解体だ。73年の中国国連加盟も大きなインパクトがあった。世界でサンフランシスコ条約など覚えている指導者がどれほどいるでしょうか?それにも拘わらず、アベは一昨年に同条約記念式典などというアナクロイベントをやった。
 戦後レジーム脱却で重要なことは、ロシアとの領土交渉です。先日のプーチン訪日を、その重要パラダイムにしたかったのだろうが、現実にはロシア側は戦争の現実を呑めというばかり。相手に戦後レジーム処理の気は全くないのである。
 このように歴史的事実の清算は相手あってのことで、自分でいくら動いてもどうにもならない。ヨーロッパや中東では1000年以上前のことを、未だに根に持つのはいくらでもいるのだ。
 ということは、アベの戦後レジーム脱却運動は、全く実を結ばない悪あがき。その間ン10億だかの税金が無駄に使われていくのだ。ドイツのように、それがどうしたと居直った方が、よっぽどマシだ。
(16/12/27)

 昔々小学生の頃、担任の教師が「12月8日は何の日か」と問うので、「お釈迦さんが悟りを得た日だ」と答えたら、無視された。担任(無論戦中派)は真珠湾攻撃記念日と答えて欲しかったのだろう。しかし、釈迦が悟りを得た日と東条という愚か者が戦争を始めた日とで、どちらが人類史上重要かは自明の理である。しかしこの戦中派担任教師はそれが理解できなかった。
 それはともかく、太平洋戦争と云えば「ゼロ戦、大和、山本五十六」というのは必須アイテムで、最早神話化されており、これの悪口を云うのは憚れるご時世である。しかし、日本はこの三点セットに寄りかかって戦争に負けたのも事実である。
 これらの内、「ゼロ戦と大和」の問題点は既に論述してある。さて、山本五十六だが、世間では悲劇の名将ということになっているが、果たしてそうでしょうか?
 別にカジノ法に引っ掛けるわけではないが、彼は無類の博打好きで知られている。ギャンブラーという人種は世間常識の裏を行きたがるものだ。真珠湾攻撃もその発想からきたものだろうが、問題は意図が不明確だ、ということだ。一体何しにわざわざ真珠湾まで出かけたのか、その意味・意図が分からない。
 当日第一次攻撃隊長淵田美津夫中佐は「第二次攻撃の要あり」と打電したが、機動部隊はこれを無視して引き上げてしまった。もしこの間ハルゼーの空母部隊がハワイに帰還すれば、飛んで火に入る夏の虫、これを撃滅しておけば、後のドーリットル空襲も珊瑚海海戦もミッドウェーの敗北もなかったのだ。何故機動部隊がさっさと引き上げたのか?これは出撃前に山本が南雲(か草鹿)に「空母6隻を無事に連れて帰ってくれ」と頼んだので、それがトラウマになったという説がある。
 そもそも命令指示を出すときは簡明なほど良い。戦争という極限状態では、敵を撃滅するなら、自分もある程度犠牲は覚悟しなくてはならない。山本の指示の問題点は、真珠湾のアメリカ艦隊を撃滅せよ、しかし全員無傷で戻れ、という都合の良いものだった。これでは機動部隊としてはどうしてよいか分からなくなる。結局は結果はそこそこ上がっているから余計なことはしないでおこう、という官僚的判断になるのである。
 これは軍隊だけでなく、一般企業社会についても言える。筆者は過去2回転社したが、そのどれも期待するのは、(1)今の会社の現況を改革してくれ、(2)ただしこれまでの社員とは上手くやってくれだ。さて依頼者は今の会社の現況に問題点を感じ、それを何とかしたいと思っているのだろう。ではその問題点を作ってきたのは従来の社員(既得権益者)なのである。現況を打破したければ、これまでの社員をクビにしなくては何もできない。これは当たり前のことなのである。ところが大抵は、改革しようとすれば従来社員の抵抗が激しく、結局は元に戻るだけ。そして最後は倒産したり(建設企画)、親会社から見放されてうろうろ(ダイヤ)するばかり。
 何故こうなっるか言うと改革に理念がないからである。思いと理念とは全く別次元。何んとかしなくてはならなくてはという思いはあるのだが、理念がないからあとは空回りの連続。真珠湾攻撃でも、その理念が曖昧だったから、中途半端に終わってしまったのである。
 又翌17年ソロモン海域。戦艦大和はトラック島にあって動かない。これを将兵は「大和ホテル」と陰口を叩いた。この米軍はガダルカナル島に着々と前進基地を構築していた。このとき、大和を出撃させ、ガダルカナルを砲撃すれば米軍は壊滅する。この時点では、アメリカ海軍は未だ大和を向かい打てるだけの海軍力を持っていなかった。何でもそうだが、何か問題・事件が起こった時、対策は何でもよいから早ければ早いほど良い。時間が経てばたつほど、事態は悪化する。彼は二度にわたってチャンスを見逃したのである。
 これらから伺い知れる山本五十六の性格は、(1)徹底さに欠ける、(2)チャンスに掛ける度胸というか、勝負勘が鈍い、というこである。これでは、とてもじゃないがギャンブラーとは言えない。ただのゲーマーだ。
(16/12/08)

 何時もこの季節になると思い起こされるのが、かのルパングの英雄小野田寛郎元少尉である。彼こそ、東電福島第一原発吉田元所長と同じ、マスコミが作った虚構英雄である。グアム島の横井庄一元軍曹は終戦を知らなかったが、小野田元少尉は発見後の会見で終戦を知っていたと述べている。当たり前だが小野田少尉は横井軍曹と違って、中野学校で教育を受けた情報将校。知らないはずがない。では何故投降しなかったかと言うと、大隊長命令が無かったからだという。しかしワタクシには、これは詭弁の言い訳にしか過ぎないとしか聞こえなかった。
 まず、彼は終戦の事実を知っていた。しかもその事実を部下に伝えなかった。もし大隊本部への通信が長期間に渉って途絶えたなら、それを回復するのは小隊長の任務である。回復できなくても周囲の状況から戦況がどうなっているかを推察するのは容易である。まして彼は情報将校だからそんなことに習熟しているはずである。しかし彼はそれを行なわずタダジャングルに閉じこもりきりだった。将校としての任務放棄である。
 大隊長命令は将校である小隊長は拘束するが、部下の下士官兵までは及ばない。彼があくまで大隊長命令に固執するなら、部下の小塚上等兵、岡野軍曹を解放した後、立て篭もるなり、なんなりすればよい。そうすれば下士官兵2名の命は救われた。
 しかし小野田少尉の行為は逆で、自分達の存在を隠すことだった。それは応召した下士官兵にとって関わりのないことである。この部下2名は終戦の事実も知らず、小野田少尉に操られ、命をおとしたのである。当にオウム真理教事件となにも変わらない。何故彼は投降を「拒否したのか?それは天皇への忠誠とか陸軍軍律とかとは全く別世界。軍法会議への恐怖だけがあったのだろう。それが怖くてジャングルを逃げ回っていたのだ。
 しかるに小野田元少尉は自分だけは生き残って、英雄となり、それどころか日本国民にまで説教する愚か振りまでみせた。小野田元少尉こそ堕落した昭和日本陸軍の堕落の象徴だ。こんな不条理が許されるでしょうか?
(15/08/16)

 高市・稲田他1名の自民党保守派議員が「国家社会主義(日本)労働者党(NSJAP)」なる自称政治団体幹部と写真を撮って.、それが欧米メデイアに取り上げられたのが話題になったのが一昨日。その後ネットでは愛国団体と写真を撮ったのは問題はないとか、本人は彼らがどういう立場が知らなかったとか、菅は政権交代前なので問題はないとか、問題うやむや化に一所懸命。 問題は一般市民やその代表である政治家達が、いかに歴史に無知・ボンクラであるかである。ここで一つ国家社会主義という言葉について、初歩的講義をしておく。前述の「国家社会主義(日本)労働者党」の日本をドイツに置き換えればこれはナチ(NSPD)になる。
 NSPDとはドイツ語のNazionaleSosialistenArbaitersPartei dasDeuitcheland の略で最初の4文字Naziをとればナチに、これにSosialistenの頭文字Sをくっつけると、NaziS(ナチス)となる。つまり国家社会主義とか、それに似た言葉はナチを連想させるので、公職にある政治家は近づかないほうがよい。それを承知で接触したとすると、欧米ではまず政治生命を絶たれる。日本は関係ないじゃないかと思うだろうが、ナチ許容者が政権にいるとなると、同盟国であるアメリカ議会がどう反応するかが問題になる。アベ・自民が推進したい日米同盟強の足を引っ張ることになりかねない。アメリカマスコミは最近中韓進出が目覚しいが、やはりユダヤ閥が握っていると思っておいたほうが良い。これは常識である。いやアメリカやユダヤ人などどうでも良い。たとえ悪魔(ヒトラーのこと)と手を握っても、わが道を行くというならそれでもかまわないが、それは日本以外の土地でやってもらいたい。
 さて冒頭に挙げたこの団体の略称NSJAPを英語よみすれば、NSジャップになる。なんとこの団体、愛国者どころか朝日新聞以上の自虐主義者、反日団体なのだ。実態はユダヤ人とか韓国人、同和系だろう。同和が右翼団体に様変わりしているケースはよくある。だとすれば、高市早苗がへいこらする理由はよく判る。
(14/09/15)

(08/15)の続き)
 戦後ヤルタ体制下で、枢軸三カ国が置かれた立場は似たようなものだった。いずれも軍隊の保有は禁止され、独自の行政・外交権は持たされず、連合軍は特権地位をもって駐留し、通貨はドルに対し屈辱的低レベルに抑えられた。
 しかし1954年西独の再軍備が認められた。イタリアはその前に再軍備している。しかし日本は再軍備を拒否した。よく云われるのが、日本は軍備より経済発展を選んだという伝説である。これは嘘である。軍備と経済発展は矛盾しない。それどころか、軍備という際限の無い消費は安定的経済成長を保障する。
 独伊と日本の際だった差は、国民の軍隊に対するアレルギーの違いによる。西ドイツ・イタリアの再軍備の直接的原因は、ソ連の西欧への軍事的球威の急増だが、当時の西欧諸国は左翼政権か、又は国内に左翼勢力を抱えていた。この点を考えると、これら両国があっさり再軍備出来るとは思えない。
 ドイツもイタリアも近代に入ってから国民革命を経験し、更にナポレオンの暴威と戦った経験から、国民軍の伝統がある。この結果、国民と軍隊との距離感は少ない。又先に述べたように、戦争末期に独裁者のくびきから国民を解放したのが軍隊だという伝説が産まれた。これが再軍備をスムースに行わせた最大要因である。
 翻って日本ではどうか?日本の軍隊は始めから天皇の軍隊として産まれた。それが昭和になると、軍人が特権階級化してしまった。国民と軍隊との距離が開いてしまったのである。更に戦争中の大本営発表と都市絨毯爆撃という現実との解離が、軍隊と国民との距離を広げていった。それだけではない。戦争中、日本では軍隊が国民を監視した。反戦主義者を逮捕・拷問したのは軍隊の一部である憲兵である。一方ドイツでは、国民を監視したのはナチ内の一機関であるゲシュタポであり、軍隊は関与していない。
 これらの点が独伊両国民に軍隊アレルギーを作らず、再軍備がスムースに行われた最大の要因である。一方日本はアメリカの要求にも拘わらず再軍備を拒否した。これは当時の首相が軍隊嫌いの吉田茂だっただけではなく(彼自身戦争中は憲兵につけねらわれていた)、当時の国民全体に軍隊アレルギーが染み込んでいたのである。もしこれを無視して再軍備に踏み切れば、政権は吹っ飛んでしまったかもしれない。アメリカもこれを恐れて吉田の言い分を聞いてしまったのだろう。
 さて現在、アベ・麻生・石波ら軍隊アレルギーを持たない政治家達が政権を握っている。それを支えているのが百田とか岡崎久彦とか、アホの勝谷とか側近・支持者達も、軍隊アレルギーの無い世代。アレルギーが無いということは、外的刺激に対し抗体を持たないと云うことだ。ここにアメリカが刺激を与えれば、たちまちアレルギー疾患を起こしてあの世行き。エボラ出血熱のようなものだ。その道連れにされるのが、何も知らない国民である。
(14/08/19)

 今日8月15日は69回目敗戦記念日(終戦記念日ではありません)です。日本人はこの日が来る度に、非道い眼にあったとか、これで日本は生まれ変わったとか、いや日本はアメリカの属国になったとか、日本本位の記事しか流れない。
 しかし、前大戦で負けたのは日本だけではない。ドイツ・イタリアと云った主要枢軸国だけではなく、ルーマニアやハンガリー、チェコ、スペインやフィンランドと言った中小国家も敗戦国である。本来ならこれら各国の戦争の負け方を吟味する必要があるが、それは大変なので、ドイツ・イタリアと我が日本との負け方の差を比べてみよう。
1、イタリア
 イタリアの独裁者(ムッソリーニ)はドイツの対フランス40年攻勢の成功を見て、「バスに乗り遅れるな」と同年暮れに英仏に対し宣戦した。ところがこれが国民に全く不評で、おまけにドイツにとっても全く役に立たなかった。1942年末の米軍北アフリカ上陸をきっかけに反ファシスト運動が盛んにになり、43年9月には連合国に無条件降伏。この間、イタリア軍部は反ドイツ姿勢で、独裁者を無視し進んで連合軍に降伏した。独裁者は追放されアルプス山中に幽閉された。独裁者は一時ドイツによって救出されたが、戦後逮捕され共産党によって処刑された。逆さ釣りの写真を見たことがある。
2、ドイツ
 ドイツ軍部とナチとの関係jは結構複雑で、ナチ政権発足当初に既に反ナチクーデター計画があった。ところがヒトラーに抱き込まれ、逆に初期には国防軍はナチを利用していた。国防軍による反ナチクーデター計画はその後何度も行われている。
 ドイツの独裁者(ヒトラー)が自殺したのは1945年4月30日。その1週間後にドイツは連合国に対し無条件降伏した。独裁者はその自殺の1週間前に、全軍に対し全ドイツ焦土作戦を命令している。これは戦争に負けるような意気地のないドイツ人には生存権を認めない。生存に必要な鉄道・発電所・工場その他全ての施設を破壊せよ、というものだった。しかし、この命令は国防軍の手によって、未然に実施が防がれた。それだけでなく、国防軍によるナチ党幹部の逮捕、SSの拘束が行われた。ドイツ人はすんでの所で絶滅から救われたのである。
3、日本
 1944年7月サイパンが失陥した。このときに、タオルを投げるべきだったのである。ところが軍部は状況の理解を拒否し、継戦を主張。46年沖縄失陥でも未だ諦めず、本土決戦を主張。では本土決戦計画とはどういうものだったのか?国民総動員の名の下に、15才から60才までの全男子を動員(国民軍)し、地雷を抱えさせて敵戦車に体当たりさせる。正規軍はその後方に控え、国民軍全滅後に攻撃に移る。こんな自分勝手で卑怯な戦法があるでしょうか?当時の戦力比から見れば、本土決戦で戦局挽回などあり得ない。官僚得意の責任回避策以外の何物でもない。しかしこの無謀且つ独善戦法も、独裁者(天皇)の一言で回避された。
 さて、この三国の違いは何でしょうか?ドイツ・イタリアは独裁者の国民道連れ・国家破滅策を軍隊が阻止した。日本では、軍隊のそれを独裁者が阻止した。
 これが戦後のこれら三国の国防政策の差となって現れるのである(続く)
(14/08/15) 


 毎年、8月15日が近づくと、巷間に溢れるのが、零戦と戦艦大和ものの出版物。両者とも、日本人のプライドを刺激する巨大アイテムである。しかし、その内容は両者に対するノスタルジー過多の追悼もの、或いは「世界最高性能を誇った・・・」というアナクロ国粋もの。こんなの幾ら読んでも、自己満足だけで、まるっきり後世の役に立たない。筆者は零戦と大和の二つが、最終的に日本の敗戦を招いたと考えている。しかしそれは両者の責任ではない。それを作ったり、運用を誤った人間(主に官僚軍人)の責任である。

1、零戦
 ここでは零戦の性能や戦歴については触れない。そんなことは、筆者のHP読者ならとっくに勉強済みの筈だからだ。零戦の悲劇の原因は、その性能が当時の戦闘機の水準に比べずば抜けていたことである。この結果、軍首脳の頭に、零戦不敗、零戦無敵神話がしみこんでしまった。
 当初海軍側の要求は、2000q以上の長大な航続距離、500q/hという高速、20o機銃2挺搭載、更に高度な格闘戦機能という過大なもの。それに対し三菱が持っていたのは、非力な三菱栄12のみ。これでは要求性能を満たすことは出来ない。そこで到達したのが徹底的な軽量化である。この結果、ゼロ戦は徹底的に防御力を犠牲にすることになった。ところがこれは格闘戦などになれば逆に失速の危険が大きいだけでなく、防御力不足は致命的欠陥になる。その点を三菱側は力説したが、海軍側の回答は、その点はパイロットの技量で補う、というものだった。何故なら当時海軍には、中国戦線で経験を積んだベテランパイロットが、山ほど居たからである。ということで、稀代の軽量戦闘機ゼロ戦が誕生することになったのである。
 さて大戦当初は、海軍当局の目論見通り、ベテランパイロットのお陰で大活躍。ここにゼロ戦神話が誕生した。ところがミッドウェイ海戦の敗北で、状況は大逆転。更に海軍大臣の嶋田繁太郎のとんでもない政策がこれに輪を掛ける。それはミッドウェーで墜落救助されたパイロットに、敗北責任を負わせたことである。この結果、歴戦のパイロットは、クビになったり、激戦区配置で命を落とすなどして、その技量が後輩に伝えられなくなった。上で述べたように、ゼロ戦という飛行機は、パイロットの技量が伴わなければその性能を発揮出来ない。ところが、海軍首脳は技量という要素を無視して、”ゼロ戦さえあれば”、という短絡的思考に陥ったのである。その結果が、昭和17年の捷1号作戦で、日本海軍は空母から離発艦が漸く出来るかどうかの未熟パイロットまで動員せざるを得なくなった。その結果が米海軍が「マリアナの七面鳥狩り」と称する大敗北を喫したのである。
 それにも拘わらず、日本海軍はひたすらゼロ戦を作り続けた。パイロット技量を伴わない軽量非防御戦闘機ゼロ戦の行く末は、特攻しかなかったのである。

*筆者がゼロ戦に入れ込んだのは、小学5・6年生から中学1年生頃。ゼロ戦の性能だけではなく、タイプを全部憶えメーカーまで憶えてしまった。スタイルとしては最終の52型が一番洗練されていたと思うが、やっぱりかっこよかったのは21型。

2、戦艦大和
 何故戦艦大和を作ったのか?これは一つの謎である。幾つかの仮説があるが、その一つに元海軍軍務局長 岡敬純のこういう説明がある。「日中戦争が行き詰まり、日米戦争も必至という頃、このままでは陸軍の突出を抑え切れない、そこで大和に予算を注ぎ込んで陸軍予算を抑え、日米開戦を防ごうとした」、というものである。こんな話し信用出来ますか?戦犯逃れのために、後からくっつけたこじつけに過ぎない。何故なら、岡自身が紛う方なき反米・対米強硬派だったからである。
 戦後の資料によれば、大和があろうがなかろうが、陸軍は既定方針通りに進んだ可能性の方が高い。その程度のことは軍務局長なら感覚で判る筈だ。それにも拘わらず何故戦艦大和を造ったのか?筆者は建造当時の軍令部総長元帥伏見宮博恭王の意向が大きく作用したと考えている。伏見宮は明治8年産まれ、海軍少尉で日露戦争に出征。戦艦三笠乗り組みで、日本海海戦に参加、負傷している。王が軍令部総長だったのは昭和7年から同16年、9年間の永きに渉っている。この間、ワシントン軍縮条約を巡って、海軍上層部は艦隊派と条約派に別れて対立する。戦術的には前者が概ね大艦巨砲主義、後者が航空重視主義*に被ると見てよいだろう。伏見宮がどちらに属していたかは定かではないが、その経歴から艦隊派の後ろ盾として、海軍政策に影響を及ぼしたと考えても不思議ではない。大和は昭和12年度予算で建造開始、16年完成。実際の計画は建造開始数年前から始まるから、丁度、伏見宮の在任期間に重なっている。相手が宮様で元帥なら、条約=航空派が幾ら抵抗しても敵わない。斯くして稀代の超戦艦が誕生した。
 では大和建造を取りやめればどうなるか?大和1隻で瑞鶴級空母を2隻作れてお釣りが来る。武蔵も止めれば4万トン空母が2隻出来る。しかしこれは戦争には間に合わない。それでも開戦時には、正規空母8隻体制になるから、機動部隊を二つに分け、一つは真珠湾攻撃に、もう一つをハルゼー機動部隊の捜索に使う。ここでハルゼー部隊を撃滅出来れば、アメリカ太平洋艦隊に残る空母は2隻だけになる。この結果、次の珊瑚海海戦は4(日)vs2(米)の対戦になり、策敵さえ怠らなければ日本の圧勝。従ってミッドウェー海戦も無くなるから、後はハワイ攻略戦だけ。この間4万トン空母2隻が就役する。更に後継の信濃・甲斐を止めれば、それに必要な資材を他の用途に振り向けられる。この勢いをもって、中国に於ける思い切った譲歩**と引き替えに、対米講和に持ち込む。そんなうまい話になるかどうか判りませんが・・・・特に戦勝に浮かれ騒ぐ国内民意が、対米和平を拒否し、さらなる戦争拡大を要求する可能性が強い・・・・、仮説としてはあり得る。
 
 要するに、零戦ファンや大和マニアには申し訳ないが、日本はこの二つで戦争に負けたようなものと云える。何故負けたのか?一つは用兵者が自己が造った伝説或いは神話に囚われ、視野狭窄症に陥ったからである。零戦については、初期の成功に幻惑され戦法の進化に追いつけなかったこと。大和は世界最大最強から不沈伝説を造ったこと。

*ロンドン、ワシントン海軍軍縮条約は、主力艦(戦艦・巡洋艦)に対する保有比率を定めたもの。当時空母・潜水艦は、補助艦艇として条約の対象にはなっていなかった。と言うことは主力艦比率を下げるほど、空母のような航空兵力を拡充出来るわけで、航空重視派がこの条約に乗った理由はよく判る。逆に判らなかったのは、日本の艦隊派だけでなく、未だに大艦巨砲主義にとりつかれていた英米両国だったのである。

**中国大陸からの全面撤兵、但し蒋介石とその周辺の中国からの出国を条件とする。太平洋での新規占領島嶼(マキンやタラワなど)の返還。三国同盟の破棄・脱退。ドイツ国内のユダヤ人日本受け入れも、重要な選択肢。

(12/08/07)


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